親の役割

子供が生まれました。
父親になりました。

決意とかダラダラ書く気はありませんし、まだ親ってどうあるべきか、とか深く考えたこともないので、
親の役割を一つ記します。

それは、
「子供に、この世界は素晴らしいってことを伝えること」



どんなにくじけそうになっても、失望しても、そしてたまには何かに絶望しちゃったときでも、
なんだかんだで世界は美しく、素晴らしいものである。
必ず誰かが君を認めてくれるし、人との繋がりは続いているし、色んな負の側面も見ることは
あると思うけど、それ以上に楽しいことが待っている。


期待と不安ってはいうけど、人生を過ごすうえでは期待10割で生きてください。



いつも笑顔で、とは言わないけど、「結局のところ世の中は捨てたもんじゃないし、自分でよく作り上げることもできるし、生きていくってことは本当に楽しい」
そう、子供に思わせることが、親の役割なのかな、なんて思いました。


僕の両親が役割を果たしたように、僕も果たそうと思います。


産まれてきてくれて、ありがとう。

司法試験・予備試験まであと1か月半

ずっと勉強しなくちゃいけないんですが、この1か月は少し足踏み状態でした・・・。
仕事も忙しくなり基本22時あがり、送別会ラッシュで土曜も寝て過ごすっていう悪循環。

これじゃ、だめですね。
ただ、あまりに張り切って頑張りすぎると、「もうやーめた」って辞めちゃうパターンも多いみたいで、長期戦前提の、小休憩をしたってことにします。
じゃないと僕の精神力の都合も、ありますし。


そもそも、やっぱりハッキリ言って「弁護士になりたい」ってのは「弁護士のココがいい!」みたいな積極的理由よりかは、
消極的理由のほうが強い気がします。
つまり、今の仕事があってなくて、少なくとも楽しいって思うことはほとんどなくて、
人にも勧められて、ずっとPCにらめっこの作業を続ける自分がイメージ出来なかった、ってのが一番大っきい気がします。

業務に対しては本当に適応不適応で考えると、上記の理由の通り僕はあっていないんじゃないかな、
って思ったりもするんですが、人には恵まれていることもあり、
まぁはっきり言うとモチベーションが左右されるわけですよね、僕の気分によって。



長期戦で戦う前提でも、これって多分超リスキーです。
少なくとも”仕組み”を作らないと。
司法試験受かるコツは『淡々と』勉強するのが大事みたいです。

もちろん感情の起伏ってのはあったりすると思うんですが、
それに左右されず「いかに機械的に勉強できるか」


・電車乗ったら参考書拡げる
・移動時間はボイスレコーダー聴く
・朝起きて少しでも多く問題解く
・寝る前に暗記


やらなくちゃいけない当たり前のことを見直し、
当たり前にできるようにならないと。

再掲。

淡々と。
淡々と。
淡々と。

困難な道を乗り越えるには、圧倒的な努力しかありません。

頑張ります。

学問 ― 利他的

久しぶりに、ずっと使っていないカテゴリ「学問」で一つ考察を。
良い感じのほろ酔いになったんでw

「学問は人の他己的な性質を前提にしている。」

このテーゼは是か非か。

少なくとも、学問を学ぶってのは教養を身につけることであり、
より自分の考えを強くもつことであり、そして多様性を理解することであると思います。

この学問を学ぶってのは、例えば資格試験を勉強するって意味の学ぶとは、
少し性格を異にするものと思います。

つまり、端的に「利己的か」「利他的か」。

資格試験のための勉強ってのは、どうしても自分の「市場価値を高めるため」の勉強であり、
就職するための勉強であり、
さらにいうと、ちまたで売っているビジネス本の類もその意味で「利己的」ジャンルになるわけです。



それに対し、学問を学ぶモチベーションってのはどこからくるのでしょうか。
単なる知的好奇心。
『自分の身につくかよくわかんないけど、それだけに興味が出てくるこの欲求』。
哲学なんて、まずそれを勉強したところでどれだけの享受を受けられるか全く不明ですよね。

フィードバックが未知だが、モチベーションは保てる。

本来、人間ってそういう生き物でもあると思うですよね。
よくわからないけど、自分じゃない誰かの役にたつかもしれない。

学問を学ぶって、性質的に利他的な要素はたくさんあると思います。

ただ、それだけでこの対比は終わらすことはできないと思います。

人のことを考える(余裕がある)人≒利他的にふるまっていると見える人っていうのも、究極的に言うと
それは自分のためにそうしているのではないのでしょうか。

簡単に言えば、
死ぬのが本当に怖くて、傷つくのが嫌で、それから必死に逃げて、
結局自分のために「利己的な思考」をすること。

安全のある生活、安定した社会を構築できれば、どれだけ自分にとって居心地がいいか。

「誰でもよかった」で殺される社会から必死に脱却方法を考え、
「よそ見してた」で自分の子供がひき殺されたときを想像し悶える。


不敵な言い方だけど、あえていうと
「頭のおかしい人をこの世から排除できれば、どれだけ安心できるかな」
って考え。
理不尽に偶発的に自分が傷つくことを防ぐ、最善の策ですね、
「他人を矯正する」ってのは。
とても合理的。


極端な言い方しましたけど、今日の意見は
ある意味で間違っていない気もします。


こういう締めくくりをするのは文脈上おかしいと思いますが、今日の記事は
金稼ぐことばかり考えるのは薄く、浅い人間だ。
って思考からスタートしているように思うんです。


そして実際そう思っています。

たまには振り返る

機会があって、4年前の記事から少し振り返ってみました。
結局僕が今まで書くテーマってのは、一言でいうと「社会」だったんだと思います。


このブログでも、学問の中でも一番出てくるのは「社会学」だと思います。
この昔のとか、社会学の範囲かどうかはわかりませんが、”思想”の分野は特に好んで本を読んでいました。


今でも覚えているんですが、学問を学び始めて最初の段階で、一番わからなかったのは「社会主義」とか「共産主義」とか、そういった経済学でも学び同時に思想の問題でもあり、抽象的な”社会の在り方”についてです。

大学3年生だった僕は、シンプルに考えました。
『社会主義?共産主義?成り立つ訳じないじゃんw』
『革命?何それ?右とか左とか、それっていったい何の対立なの?』

ここから僕の学問が始まった気がします。
本の書いてる意味がわかんない。
そもそも資本主義以外あり得るの。

っていうところからスタートして、経済学とか社会学とか思想の分野とか哲学とか政治学とか法学を学ぶようになって、
簡単に言うと『人の考え』ってどうやって生まれるんだろうって考えて、考え続けて、今がある気がします。


そういう意味では、少し前の記事で”問題意識を持つ重要性”について書きましたが、
僕の問題意識っては”人の考え、そしてあるべき答え”っていう究極的に導かれるはずのない答えを模索しているようです。

そもそも社会に正解はないんだ。教科書的なフレーズですが、"better"ってのはありますよね。
それを提案したい。


28年間生きてきて、6年前の今日にたくさん人が死んじゃって、ネットで震災関連の記事をいくつか読んで、
あれからもう6年もたつことに気付いて、自分の変化について考えてみました。

結局、変わんない部分は変わんないと思います。
ただ、読み返しても泥酔して書いてるものもあるんで、だいぶ過激な内容で赤面したりとかはあるんですがw


でも若い(といっても5年前)ってのもあり、勢い任せで書いてるところがまたいいですね。
逆に若い時に書けたから、今も言える。



ちょっとでいいから、社会を良くしたい。
ためになりたい。
社会を変えたい。


思考・生存競争

常日頃から無い頭使って(!)必死に自分の頭で考えようとしている僕ですが、
そもそも何で思考って止めちゃいけないのでしょうか。

っていうより、何で考える必要があるんでしょうか。

僕の仮設としては、思考ってのも結局は「生存競争の一つ」であるように思うんです。

生存競争。つまり「生きる」ため。

単純に言えば、「生きるために考える」ってことになるんじゃないでしょうか。

もちろん、昔に比べて「生きる」って意味も変わってきていると思います。
明日を生きるっていう「生きる」ではなくて、どちらかというともっと高次元の「承認欲求」的な意味合いを含んだ「生きる」。


簡単に言えば、「満足して生活出来ていない」から必死に考えてるわけで、
それほど「考える行為」ってのは身体に大きな負担を与える行為だと思うわけです。

生存競争の結果、何の心配もなく生きていける世界なら、何の思考も必要としないでしょう。
「自分の身が危うい」意味での不満な部分がこの世界にあるわけで、必死に考えてるわけだと思います。

考えるって行為は、結局何かを「創りだすモノ」ではなくもっと消極的な行為になる、ととらえるのはやりすぎでしょうか。


僕自身、何で考えなきゃってせっぱつまってるのか。
自問自答の結果が今日の記事でした。

でも本当に、脳を使う・考えるって行為って思った以上に負担ありますよね。
寝る前には、少し厳しい。
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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