”合理的” と ”効率的”


今朝は出勤しながら、考えちゃいました。
”合理的”って言葉と、”効率的”って言葉について。

多分いい傾向だとは思うんですが、法律を勉強するっていうことって異なる価値観があることを理解することだと思いますし、
そしてそれを調整するもの、妥協の産物が法律であるってことにも気づいたし、そしてそのような効果を与える法律の各条文について、「そもそもこの条文の趣旨は・・・」って考えるようになりました。
AはBである。 この一文について、「そもそもAって・・・」というように、本質を考える癖がついたと思います。
考える前提を明確にする。自分なりの定義付けをする。これって、自分の頭で考えるためにも、凄く重要な事だと思います。


前置きが長すぎる気もしますがw
本題。そもそも論で上の2つの言葉について考えた所感。

これらの言葉を使う場面をまず考えてみましょう。
こんな一文ってどうですか。
「試験合格を目指すための、合理的な判断は、効率的な勉強をすること」
こうみると、”効率的”は”合理的”が内包しているもの、と考えられます。

少なくとも、この2つの言葉たちは、通常良い意味で使われますね。
では、”合理的”に考えて行動することは、『正しい』ことなのでしょうか。

この点について、例えば経済学部では、理論の前提として「”合理的”経済人」を設定しています。
『正しい』かはともかく、『自己の生存』を究極の目標にしたうえでの”合理的”な意思決定。これがモデルとされている像です。

ただ、学問の世界ではなく、この世の中で、この理論にどれほどの説得力があるでしょうか。
”合理的”だけが、すべてでしょうか。僕はそう思いません。
”合理的”のみが絶対的な善とみなされると、それは『社会の可能性』の否定としか言えない、と僕は思います。

社会の否定って言葉をどう意味で使ったとかというと、それは「人間性の否定」です。
人間らしさってのは、端的に言うと、『非”合理的”な行為』に他ならない。

ちょうどノーベル賞の発表がありました。
大隅良典栄誉教授の発言を引用↓
「1つだけ強調したいことは、必ずしもがんにつながるとか、余命(の延長)につながると確信して研究を始めたわけではない。基礎研究を、そうご理解いただければ」

何のために、誰のための研究か分からない。学問的渇望、知的好奇心の帰結が、ノーベル賞。
結局、一番効果があるのは、「自分のため」ではなく、「よくわからないが誰かのため」に自分の力を使うこと。
そう意味での未知の領域での進歩こそが、科学発展だし、イノベーションに繋がると、僕は思います。

この文脈で、残念ながら経済学はモデルとする「”合理的”経済人」と対象な人たちによって、作り上げられてきたといえるのではないでしょうか。(ちょっと言い過ぎ)


そして最後に。
経済学上のモデルの「”合理的”経済人」も、たまに間違えちゃうことがあると思います。
ちょっとしたミステイクではなく、重大な過ち。
それは、『人間の欲望は無限大』っていうことをリスクとして捉えられていないことです。
各個人の欲望が有限なら、それを満たす行為こそが、”合理的”だと思いますが、
無限な欲望を満たそうとすることこがまず不可能であり、アプローチを間違えると罪を犯すことになると思います。

海賊王に、俺はなる! でもなんでも欲望を抱くのは自由ですが、
足元を見ながら、この意味での『足るを知る』という言葉の意味に気づくこそが、
欲望を抱く上でのマナーのような気がしてきました。

「足るを知る」、ちょっと違う意味で使っていますが、昔のブログです、恥ずかしい文章ですねw




以上、今日の雑感。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウント^^
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR