哲学的な問い。

哲学的な問い。
「なぜ自分は生きているのか」
「何のために自分は生きているのか」
っていう問いを聞いたりします。

たぶん、僕は
他人より哲学書を多く読んできた自負自覚はあります。

そしてたまに、というよりそれなりに多い頻度で感じる「虚無感」。
何のために生きているんだろう。
哲学ではどう考えられるんだろう。
そもそも人間って・・・。っていう答えなんか出ない問いに、考えたりします。


そしてこれも今の自分なりの仮設ですが、哲学始めた人に
「哲学ってのは、人はなぜ何のために生きているのかを考える学問だよ」って、
ちまたにおいてる本みたいに教えちゃうのは不親切なんじゃないかなってこと。
「俺、何のために生きてるんやろな」ってのはちょうど中学校2年生くらいで感じる違和感であって、
生き延びていくためのヒントにもならないこと。誰しもが試行錯誤してながらもがきながら生きてるってこと。

わかりやすくシンプルな問い。
哲学的で本質的な問いというのは
『生きて何を考えるのか』ってところじゃないえすかね?

一つ言えるのは、みんなそこまで暇じゃないってことです。
仕事に追われ、遊びに追われ、家庭サービスに追われ、勉強したり、バイトしたり、たくさん寝たり。
「考える内容」、考える質ってのを問われている。
それが哲学の本質だと思います。


逆に言うと、今はスマホゲームも含めて
「無思考でいられる時間」ってのが非常に多くて、
そういう意味ではすごい誘惑されてるわけです。
居心地いいんですよね、何も考えずにゲームしてる時間。

ただ、景色見ながらボーっとする時間とスマホいじってる時間は決定的に「無意識レベルで」違うように感じるんです。

話は戻りますが、どう定義づけようと、哲学っていうのは「考える」ことを考える学問ではあるように思います。



人は何を考えるのか。
何を感じれば、どう考えるのか。
何を言われたら、どう考えるのか。
何を見たら、どう考えるのか。

人が考えるキッカケってのを突き詰めれば、そこにヒントになるものがあるような気もします。

選挙という民主的手続きも終わってひと段落して、
『思考停止社会』って語られるのが通説になりつつある現代で、
考えるって行為、人間の人間たる存在意義、原点について考えてみました。


どうあがこうと自分は「個人」であり社会を作る一人であり、
有権者でありその意味では社会に責任を負っています。


誰しもが個人として責任を持つ社会であり、そのために一人一人が考える
っていう過程が機能すると、それこそ最良の民主主義の形態になるんでしょうね。


僕も自戒を込めて文字にします。

オリンピックで「日本チャチャチャ」って応援するにしても、
同じ地球上で殺し合いをしてる人間がいることも頭の片隅に置きたいですね。

そして人間の特質上からしても、平和ってのはこうやって人間として相互に地球上の違う環境に置かれた人々のことを考える行為自体そのものを指すのかもしれませんね。
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Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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