肩書 と 語られる内容 【言論の自由】


今、様々な肩書が蔓延しています。
○○学者、ブロガー、批評家、作家、思想家、
もっと実務的な肩書になるとアナリスト、弁護士、あと資格を挙げればキリがないでしょう。

今日考えたのはこのそれぞれの肩書で語れることの出来る内容、その制限についてです。

昼のワイドショーでも、或いは本一つとってもそれぞれのその意見を述べる人の肩書をもって、
その肩書による論考というものが行われていますよね。

では、その述べる表意者・発言者によって語られる内容は制限されうるのか?
ということを考えたんです。

僕は現時点では、この問いに対してyes と返答せざるを得ない状況だと思います。

何故か?
視聴者・読者は肩書をもとにその人を判断し、内容を吟味する。
マスメディアの在り方、及びそれを含む言論界の状況としてこんな現状になっていると思うからです。

要は、肩書の設定により発言者も無意識のうちに語る内容が制限させられている。
「この立場からはこんな事しか言えない」

ある組織に長く属する人、役職で行動する事を求められる人ならば想像つくでしょう。


あるセンテンスがあるとしましょう。
このセンテンスを読んだ人はまず何を思うか?
「これは一体誰が、何の目的で言った内容で、何を言おうとしているんだ?」
じゃないですかね?
僕は少なくとも1つのセンテンスに対しても、「この一文はステークホルダーの一員としての言論である」、
という前提で対応する傾向に気付きました。

肩書きに左右されず共感されるセンテンスがあるとしても、残念ながら現在の言論界はコンテンツ勝負、というわけにはいっていない。
誰がそれを言うかによって支配されていると思うんです。


以上の考察を踏まえた上で、ですが2点。

①僕は今ブログで感じた事、思った事をつらつらと書いていますが、これも僕自身どの肩書を採用するかによって
変化がありうる、
ということです。
経済評論家、と肩書を変えると今日のこんな記事なんか書けやしません。
アマチュア・ブロガーという抽象的すぎる肩書だけに許してくださいw
僕だけの話でもありません。
各界の著名人。
どんな肩書で何を述べているか。
言論内容と肩書の相関関係は。
考えるに値すると思います。

②ネットの可能性、についての言及です。
ネットでの発言って肩書は「ネットの住人」になりますよね。
僕もそうですw

例えば僕がもし仮に万が一素晴らしい記事を書けたということがあってもそれがシェアされるでしょうか?
残念ながら可能性としては非常に少ない。

そう考えると、不特定多数が入り混じれるネット界。
この中で語られる内容ってどれほど有効なんでしょうかね。
純粋にコンテンツで勝負する場。
「知のプラットフォーム」をネットの中で、発言者の肩書無しで構築するのはそもそも可能なのでしょうか。




最後に。
スケールを大きくします。
上記の文脈で考えると、言論の自由って現在日本では憲法でも保障はされてはいますが、
無意識に個人の中で制限されているもの、
といえるのではないでしょうか。
何を言ってもいいが、この立場からはこんな事しかいえない。
コミュニケーションを行ない、語り合う中で無意識にそれを刷り込まれた。
簡単な例→政府を批判出来るのも、一国民という立場で可能になる。
では、他国の政府を批判しますか?
それは自分に実際の利害が無いからですか?地球・世界規模でみるとあり得ますよね。
批判する「資格が無い」「立場じゃない」と刷り込まれているからではないですか?


というより、一個人として自分をどの立場に設定するかにより、言論する内容、
ひいてはその前提となる思考まで制限されているのではないでしょうか。
=「僕はこの内容について考える立場に無い。」
これは思想の自由って領域にももしかして絡んでくるんですかね。



無意識の自覚。
最近はフロイト・ソシュール関連の本を読み漁っているのもあり、言論及び思考様式について考えてみました。

なかなか深く考えちゃったので今日なかなか寝れませんw



明日も雨っぽいですが頑張りましょう^^v
お疲れ様でした♪
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Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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