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合理的な 生命体 (他者への攻撃)

以前、こんな記事を書きました。

『人を死においやるような感情を人が授かっている・持ち合わせている理由』を知りたい、と。

やっぱりそれから考えてみたけど結論が出ず、試しに本を読んでみました。
2冊、気が付けばアマゾンで買ってました。
人間とはどういう生物か
ヒトの本性
ってこの2冊。

そして、2冊目を読み終わったときに、一部、自分なりの答えが出ました。

人が複雑な感情、負の感情を持ち合わせているのは、”公共性”のため。 ”集団全体の利益”を高めるため。
つまり、自分が所属するコミュニティを守るために、ある意味で排除しようとするその防衛本能から、「怒り」「恨み」「妬み」などの感情が生まれる。
つまり、負の感情により他人を殺すのは、コミュニティ維持のため。
そう、結論付けたいと思います。現時点での、仮説です。

考えていく中で、パターン分けが必要な気がしました。
①憎しみ・怒りから他人を殺害する
②金銭欲・性欲から他人を殺害する
③自殺

まず議題にしたいのは、このうちパターン①についてです。
特定の個人を恨む→異質を排除しようとする→排除自体が”集団全体の利益”を高めると認識する(無意識)→排除(殺害)
つまり、あくまでみんなのため。
生命体全体のためになるために、個体を一人、排除する。

この思考経路は、非常に合理的です。生命体として、合理的です。

イジメなどという問題も、根本的な部分は同じかもしれません。
決して自分が満足しようとしているわけではない。
皆のために、コミュニティのために、広く言えばわれら人類のために、悪意なく、他人を攻撃するケースも、この理屈で説明がつくと思います。

ここまで書いて、昔書いた記事を紹介したいと思います。

”そう、クレームの本質。それは「責任感」。”
”例えばレストランとかでも金払ってサービス受けているのにそれが全然ダメだったり、
全く客のこと考えていないような接客されたりすると、はっきり言って腹立ちます。そして僕はまだまだ未熟なので態度に出てりします。でもそれって自分のことだけ考えているんだけじゃなくて、「金払ってサービス受けているんだからそれはないよね」っていうある意味、社会的評価のもと判断してるような気がするんです。”
”そうすると結局クレームってのも、他者からの承認欲求を満たすという原理的な人間の性質のもと、生じていると思えてきます。”

他人のために代弁している、それがクレームの本質でもあると、そんな記事です。

なんか、言っていることが似てますよね。ここまで考えてたのに、本を読むまで、気が付かなかったのかなぁ。
他人のために他人を攻撃するって部分は、言っていることが同じです。
それが真に公益になると自分が信じて他者を攻撃する、極端になると殺害する。

以上、パターン①憎しみ・怒りから他人を殺害する についてでした。


次にパターン②金銭欲・性欲から他人を殺害する
これは、上の理屈はあてはまりません。
純粋に、この②については個体として生存本能そのまま出力された結果とみなすことができると思います。

つまり、集団とか関係なく、「自分が生きるため」に人を殺した。
自分の欲求を満たし、生存につなげるため。
ある意味でこれも生物学的に、個体として合理的でしょう。



ただ、③自殺について。
現時点では、この問いに答えることはできません。
「何で自殺するのか。自殺の生物学的な位置づけを説明せよ」
コミュニティの維持のために、自殺を選ぶ。それは、説明できません。

これは全く別の説明が必要になってくるようです。
自殺は①のように集団の利益にならないし、②のように個体自体の利益にもならない。

『ヒトは社会的動物であり、社会性を失ったとき(他者から承認を否定されたとき)、自分自身の存在価値を見出せなくなり、自分で死を選ぶ』みたいな言い方になるのかもしれません。
もっともな言い方ですが、これはひとつの生命体としてとる行為としてどうなのでしょうか。
少なくとも全く合理的ではありません。
どう考えても、自分で死を選ぶような仕組み自体に対して、納得がいきません。


これも、また少しして考えてみたいと思っています。
今日はここまで。

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32歳で転職

単純な計算をしてみました。
うまくいって、来年予備試験に受かり、再来年の司法試験に一発合格できるとすれば、32歳。
32歳で、転職ってことです。
32歳・・・。
どうですかね、ちょっと、年とっちゃいましたね。。。

やはり20代でギリギリ決断できたってのは大きくて、30代後半で転職って、少し遅い感じがしますよね。(受かる前提ですが・・・)
何よりも、社会人で一番スキルが身について色々覚えながら自分のやり方を確立できる期間ってのが20代後半から30代半ばまでじゃないですか。

はっきり言って今の貴重な30歳という年齢のすべてを試験勉強にあてている感じになっちゃってるので、その意味で不安です。
受かった後に、司法修習を受ける際に、「おっちゃんがおる」って思われるのが、メチャクチャつらい。

想像してみたら、本当につらい。
歳は離れてるのは仕方ないけど、せめて”同期感”出したい・・・。
皆と対等にお喋りがギリギリできる年齢でありたい。
友達になりたい・・・。

って想像してたら、今日一日、凄い勉強できました。

やっぱり、無意識に”いつか受かれば”ってのがあったのかもしれないし(おそらくあったし)、
それをいかに振り切るかってのはとっても重要で、モチベーションアップの持続以上に、後がない感・切迫感を自分にいかに意識させるかで合格までの道のがだいぶ変わりますよね。

やっと、気付きました。

後は、家族のこと考えてもそう。

ワガママ言って勉強時間確保してるみたいなもんだし、ずっとこれが続くってのは家族サービス上良くないし、
何よりも、なんか、今の自分ってのはちょっと自分らしくない感じがしていやです。
なんて言ったらいいのか難しいですけど、極端にいうと「ふさぎこんでる」感じがしてます。
まぁ確かに今は受験生であり、勉強ばかりするべき身分です。

最短合格をするのは、余計なことに首突っ込まずに、勉強ばかりすればいいのです。

っていう考え方が今の自分を支配してて、コミュニケーションの形が変わったように思います。
特に知らない人に対して。

昔は周囲の人・不特定多数に対して意識のベクトルが強く太く向いてましたが、今はどちらかというと内側に向いてます。

話しかけにくい人。
そんな感じかもしれません。
つまり、健康衛生上もずっと勉強するのはよくありません。

こんな自分、いやです。

早く昔みたいに、前を向いて歩くような(!?)、目を輝かせて(!?)生活できるようになりたいです。

でもこれは確かに僕がこのブログでずっと言ってきていることでもある「環境が、人を決める」って考えにも合致していて、
勉強時間が長すぎてふさぎ込んで、個性変わっちゃったらつらいですね。


今年もあと1週間。
平成31年司法試験予備試験まで、あと、ほぼ半年程。
”いつか”じゃなく、本気で受かります。今年、予備試験合格。

”司法修習生で、友達を増やしたい”w
そして、
”自分の人生でのピークを弁護士としてのピークにもっていきたい”

今年ももう終わる直前に、本当に吹っ切れた感じがして良かったです。(コンスタントに吹っ切れていますがw)


メリークリスマス、なんて関係ない。
勉強して勉強して勉強して、次の司法試験予備試験に、受かります。

考える場所

物事を考える場所、強制的に考えさせられる場所ってすごい大事だと思います。

って、サウナに入りながら考えたのが今日のハイライトですw

現代っ子って、常に手元にはスマホ。
ボーっとする時間って、ほぼないですよね。
家帰ったらテレビがあり、暇ならスマホ眺めて。

昔みたいに、田んぼのあぜ道に腰を下ろして、青空眺めながらボーっと物思いにふける瞬間。
こんなのが、今は皆無なような気がします。

京都大学付近には、”哲学の道”と呼ばれる場所があります。
そして、著名な哲学者は、決まってお気に入りの散歩コースがあったような。
そんなエピソードを聞いたことがあります。


そう、散歩。
歩くことって、無意識に思考させられているんですね。

それは、「いつもの道」ならそのほうが効果的。
なぜなら、目的地も決まっていて曲がろうか進もうか迷うこともなく、一心不乱に”思考すること”が許容されるからです。

サウナも、そうですよね。
気が付けば。
ボーっとして、「あー、暑いなぁ」くらいの気持ちで、いろいろ考える。


実際に、このブログ書いた記事でもサウナ発の内容が多々ありますw

サウナで思いついて、水風呂で発展させて考えて、湯船につかりながらまとめて1セット。

多いときは、1回の銭湯利用で3テーマ位まとまります。
(後から考えて没にもなりますが)


こうやって、意識的に「考える場所」ってのを作らないと、積極的に考える時間・場所・空間はないように思えます。

風呂にまでスマホ持ち込みと、最悪です。

昔の言い伝えで「三上」って言葉があります。
馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、便所に入っているとき。章を考えるのに最も都合がよいという三つの場面。
(参照)


今では寝る前も、トイレでも、移動中でもスマホをいじるのが普通になってきてはいませんか。

「この後どうしようか」
「今日の晩飯、何にしようか」
など身近なネタから、
「クリスマスプレゼント何か買おうか」
「結婚10周年、何かしようか」
「良いタイミングで保険も見直すかぁ」
みたいな少しゆとりある発想。

そしてその余裕が出てきたら、思考の領域は必ず増えてきます。

前読んだ本で気になったあのフレーズについて。
最近話題になっている社会問題、政治ネタについて。

さらにはずっと自分で疑問をもってた一つの問いに、答え(仮設)が閃いたりもします。


やはり、そうやって考えることを強制させられる時間、場所、スペースを確保すること。

”情報過多”そして”選択肢過多”のこの世の中で、受け身にならずちゃんと自分の頭で考えて行動していくために、必要だと思いました。

そのためにも、決まったルートを”歩く”
一番身近で一番効果的なこの行為を、大切にしていかないと、なんて思ったりした年の瀬でした。

君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか。
吉野源三郎著。

これを初めて読んだのは、確か小学生の時。
通ってた塾で、夏休みの読書感想文で宿題として出ました。

最初読んだときは、あんまり覚えていないですが、最後の一文は凄くしびれました。
「君たちはどう生きるか」。
まぁある意味予想通りですが、当時、凄く色々考えた気がします。

これは、素晴らしい本です。
間違いなく。

漫画が出たということで、やっと最近になってですが読み終えました。
やっぱり、最高でした。
この本は、素晴らしい。
やっぱり最後がかっこいいw


「人間分子の関係 網目の法則」
ネタバレになりますが、本で出てきますよね。
その前段階ですが、高いところの上から、人を見降ろして、コペル君がハッとするシーンがあります。

「個人の主観」の集まりにより、社会は出来ていることを客観視できるようになった。
このシーンは、そういうことじゃないでしょうか。

自分と同じように「あれしなきゃ、これしなきゃ」って、人はせかせか行動してるわけで、それを俯瞰的に見るその姿勢。
それこそが、この本で一番伝えたい部分でもあるように思います。


話はそれますが、僕は、麻雀が好きです。
学生時代は徹夜マージャンをし続け、オールで試験受講も結構な頻度であったくらい、麻雀が好きです。
学生時代の頃から、弱くはなかったです。

結局、期待値計算の連続なので、頭で計算すれば答えがでます。

というのは冗談ですがw

まぁ社会人になって、さらに理解したわけです。
4人制ルールの本質を。
ゲーム理論の適用を。

学生の頃って、結局のところ
「1位と何点差だから大き目狙う」
「2位と何点差だからアガリ目指す」
で、思考はストップしたいたわけです。

一方、
「2位のあいつはどうするか」
「4位のあいつと3位のあいつはともにアガリ目指しに来る」
ゆえに、
「自分は無理しなくてもやつら同士でやりあうだろう」って思考。
これが、社会人になってからできるようになりました。


これがわかったときは、閃きましたね、そういうことか!ってね。
風呂場で叫びました。ユリーカ!


考えてみたらわかることなんですが、考えてみないとわからない。
自分はどうするかって基準を考えるにあたり、他者はどうするかを踏まえて考える。


これって、
最初に書いた部分と関連していますよね。

確かに「人は主観で生きている」。
そして「人は主観で生きている」ことを理解しそれを客観的にとらえることで、物事の見方はガラッと変わる。

違う言い方をすれば、
「彼はどう考えているのか」
「彼女はどんな思いをしているのか」
いわゆる思いやり・気配り。
これができ始めたら、確かに大人への一歩です。

コペル君は、大きな一歩を踏み出したように思います。

この話ってのは、社会で生きていくうえで、一番大事な部分だと僕は思います。

思いやりと気配り。
自分と違うコミュニティで行動する人を、想像するその力。


そしてここまで書いて思い出しました。
このテーマ、昔書いたことあるな?
そして、見つけました。
6年前の記事です。

(引用)
”一律にあいつは悪だ、と決めつけるのはその時点で思考停止です。
相手の論理を考え、自分と意見が合わないのはどの部分に相違があるのか。”
”個人のインセンティブ・行動の意思決定要因を緻密に分析する
ことにより社会の構造・仕組みが見えてくる。
世間一般では、それが「思いやり」と呼ばれている”。


当時の仮設ですが、今でも検証中であり、まだ仮説ではあります。


これだけは言えます。
「君たちはどう生きるか」は、一般教養を高めてくれる本です。

このブログのタイトル「リベラルアーツ」も、少なからずこの本の影響を受けているような気がします。


リベラルアーツ、ノブレス・オブリージュ

ハウツー本って多いですよね。
困ったときに読むハウツー本。
悩んだら手に取るハウツー本。

例えば冠婚葬祭だとか、マナーの話だとか、病気になったときとか、色んなときに備えて色んな形で、ハウツー本はあります。
と同時に、今では便利なハウツーサイトも多いですね。

ちょっと気になったときに検索してみたら、検索エンジンも発達していることから、すぐにお悩み解決のサイトが出てきます。
非常に、便利な世の中ですね。

僕も使ってます。
ヤフー知恵袋とかw

少し信ぴょう性が怪しいときもありますが、やはり今までに同じような人が同じような疑問を抱えているってだけで、なんか安心しますよね。
自分だけで悩みをかかえているわけじゃないんだって。
他人も同じ悩みを抱えているんだって。

それに対する答えが少々間違ってても、少し安心しちゃいます。

また、僕には子供が2人いて、妻は出産のときに、出産の際や、子育ての際にたくさん悩んだと言っていました。
過去形じゃなくて、2人も子供がいれば日々悩みは消えては増えていき、の繰り返しのような気がします。

妊婦の悩み、主婦の悩みというものは共通するもあり、少し気になったところから深刻に悩んでるところまで、本やネットで手軽に情報集できる。
その結果ときにとっても救われた気持ちになるときってありませんか。

コンプレックスもそう。
誰しもが、コンプレックスを抱えていると思います。

無意識に、潜在意識として、抱えている気持ち。
身体で嫌いなところとか、身体的特徴とか、症状とか。

誰しも悩んで、困って、ときに解決して救われて、生活してると思うんです。


ですが、一方で、日本は一般的に自殺者が多いといわれています。

人生で絶望したとき。
生きていくのが嫌になった瞬間。
もう何もかもが終わりになったとき。


そういったときに、最後の砦となるのは何なのでしょうか。
多分、答えの一つは”人”であると思います。
両親だったり親友だったり恋人だったり家族だったり、自分を社会につなぎとめてくれるもの。


ただ、その存在がなければ、つまり頼るべき人がいなくなったら、どうなるのでしょうか。

本当に単なる思いつきです。

ただ、そんながけっぷちのときに、いざというときに「このサイトみてみようか」って思えるような最終手段。
最後の逃げ道。


そういうのって、作れる気がします。
どうやってとかじゃぁ作れよとか技術的な部分は置いといて、まずは理念だけ。


生きていく上での究極のマニュアル・ハウツーサイト。


主婦でも、妊婦でも、浪人生でも、会社クビになった人でも、会社に辞表たたきつけてきてすべて終わった人でも、皆が参照できるような、そんなサイト。

僕自身の問題意識として、やっぱり誰しも悩みってものは抱えて生きていくものだとは思っていますしその通りですが、
人間の本能としても、「解決したらある程度忘れちゃう」ってところがあると思うので、その部分に対してうまくフィードバックできるような仕組みがあれば良いな、って思うんです。



まず、単純に思うわけです。

『本当に死ぬほどつらい思いをしてる人がいる。
苦しいほど悩みに悩んでる人がいる。

すべて自分で抱え込んでしまってどうしようもできずにあがき、もがいてる人がいる。

同じ悩みで。

それは、何とかできんのか?』
と。



本当に深刻な悩みでも、たった一つの情報ですべてが救われる、そんなケースありませんか。


自分だけ身体に変な症状があるのが、実は・・・が原因で・・・で対策できる。
とか、そういうの。

あと精神的に参りそうになった時も、やっちゃいけない行動するべき行動ってあるじゃないですか。
・暗い部屋で一人でスマホ眺めるのはよくない
・暴飲暴食はだめ
・日光浴びるべき
・運動するべき
・良く寝る
などなど。

自分の身体の調子の異変に気付いた時にどうすればいいのか
って結構人生生きていくうえで必要な情報じゃないですか。

それが点在しすぎている気がします。

情報を集約させ、このサイトに頼れば安心。
って規模にすれば、必然と情報も増え、結果、死ぬほど悩んでる人も、少なくなるんじゃないでしょうか。


思考回路も、イメージできます。

極限まで追い込まれて死にたい人は、ネットでなんて検索するんでしょうか。

検索手段も分からない、そんなときに誰しもが使っている「お悩み解決サイト」的なのがあればどうでしょう。
まず、クリックしますよね。

そこから、「こういうときは」のカテゴリーから、「死にたいと思ってるとき」をクリックし、具体的な理由でまた分かれて、最後にたどり着くわけです。皆がどうやって乗り越えてきたかとか、何すれば調子が良くなるか、とか。


少し前の記事
でも書きましたが、悩み抱えて自殺をしてしまう。

これは生命体としては悲惨なことだと思っています。

自殺という生命体が想定していない事象。

こうやってブログ書いてるときも、世界でみると一日に何人も自殺しているでしょう。

それを”自己責任”の一言で片づけるほど僕は教養が備わっていない人間だとは自分で思っていません。

何か一つの仕組みを作ることにより、そういう人が減るのなら、それは「世紀の発明」でしょう。

そんなの無理じゃない?
そうかな?僕は、考え続けたいと思います。


「リベラルアーツ、ノブレス・オブリージュ」
って、そういうことです。

人間は不完全

のんびり、生活したいです。

都会の喧騒なんか意識せず、ネオンなんか避けて、海とか山とかに囲まれて、ゆっくり生活したいです。


というのも、”人間は本来どうあるべきか”を考えた時に、日本の社会人って、「常に緊張を求められる」ような気がして、そこに違和感を感じています。

現代では、何をするにしても「緊張を求められる」。
それが意味するところとして、例えば下記の例です。

昔なら、農作業の手間に田んぼで話をしながら、気楽な日々を送っていた(※完璧な主観です)
江戸時代あたりなら、イメージできますよね。

でも今は、どうですか?

車運転するなら、人身事故なんかしたら他人の生命にかかわる。
電車乗るにしても満員電車。朝の満員電車では降りるだけで精いっぱい。
公共交通機関では常に周りに気づかいが必要。

なんか、ざっくと書いてみたんですが、ある意味で”生きにくい”気がします。
少しでもボーっとしてたら、非難される。
特に「100%を求める」日本社会では、その光景は強いです。

車を運転しててもそう。
昨今は危険運転が問題になっていますが、根本的な問題として
「求めるレベルが個人により違いすぎる」ってところはあると思います。

これも主観で恐縮ですが、中国とかベトナムとかタイとか、クラクション鳴らされてやっと動く。
鳴らされる前提。

日本では少し車間距離が近かったらイライラ開始。
あるいは少しのマナー違反の指摘で大惨事にいたる。

”許容”って意味合いでは、日本ではすごく息苦しい状況にあると思うんです。

要は、社会人として生きていくうえで、求められる基準が高すぎる

成人になったら自立して当たり前。
魔が差しても過ちなんかしないのが当たり前。
万が一ミスっても実名報道、社会的抹殺が行われて当たり前。

一つのミスを許さない、許されない社会。
それが今の日本だと思います。


同時に、常に精神の緊張を強いる。
それが今の日本だと思います。


で、前の記事ともかかわってくるんですが、次のような疑問がうかんできます。

「そもそも、人間ってそれに耐えうるような構造をしてるの?」

つまり不完全であるはずの人間という生命体に、完全を求めているわけで、
思考に限界はあるわけで、つまりボーっともするわけで。
いわゆるキャパオーバーってのが、リスクなわけです。


そんなキャパオーバーになっちゃった人たちが、メンタルの病気にかかっているんじゃないでしょうか。
人間として本来処理可能な領域を超えている。

エラー信号が出る。
それが”鬱病”だったりする。

現代って、そんな構造になっているんじゃないでしょうか。


一番怖いのは、つまり、「100点じゃないと認められない」っていう承認欲求の持ちようです。
友達付き合い・人間関係もそう。


僕は何度も皆が生きやすい社会ってなんだろうって問題提起はこのブログでも行ってきました。

今でも、僕はこの答えを探すために日々過ごしてるといっても過言じゃありません。

まずは 妥協 。
そして  許容 。

自分で100点を求めるのは勝手だが、それを他人に押し付けない。
70点で互いに承認していく。


その繰り返しで、連続で、もっともっと、この社会はよくなると思います。

人間という生命体は、不完全です。


不完全同士、頑張ろうや



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プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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