FC2ブログ

図書館の社会人席

明日も、図書館に朝から行く予定です。
そこに社会人席ってのがあって、社会人しか座れない席があるんです。

そこが、非常に良いんですね。
皆、メチャクチャ勉強してるんですよ。
若い人なら20代前半から、70歳はいっているであろうご高齢の方まで。
いろんな人が来て、皆勉強してるんですね。

そういうところにいると、気付かされます。
あ、自分だけ勉強してるわけじゃないんだな、
皆、休日返上でこんなに勉強してるんだな、
って。

たまに伊藤塾のテキストひらいている人も見かけます。
皆ライバルです。
ただ、こっそり士気高めてくれているので、決して敵って感覚はないです。

本当に凄いと思いますよ。
こんなに頑張ってる人がいるんだな、って。

こういう周りの環境ってのは、凄く大切にしたいですね。
家庭を持って、家庭だけでの生活なら、残念ながら「勉強してる人」と日常から接することはありません。

伊藤塾も在宅生ですし、一緒に勉強してる人に触れることは、モチベーション持続のためにもとても重要だと思っています。

先日、裁判の傍聴に行ってきました。
民事は初めてみました。
約3時間ちょっとでしたが、原告被告による当事者尋問、証拠の提出等、民訴の現場ってのを目にして、感動しました。
そこでやっと「弾劾証拠」の意味をしったし、勉強になることも多く、また時に熱く語ってた両弁護士がとても印象的で、
本当に行ってよかったと思いました。

”自分は受験生だ”
そう思わせてくれるような環境に身を置き、ゴールを常に意識し、ゴールから逆算して毎日勉強する。

まずはこうやって勉強できる環境に感謝。

5年以上も前ですが、こんな記事も書いた覚えがあります。
(ちょっと何言っているかわからない部分は多少ありますがw)

今でもこれを再認識しようと思います。
足るを知る。
そしてその場の希少性から、能率UPに努める。

限られた時間の中で何を得るか。
明日もみっちりやって、着実に一歩進めようと思います。
スポンサーサイト



論文を書いています

論文を必死に書いています。
書きながら気づいたんですけど、覚えるべき論証パターンはどこからどこまでで、どれほどの精度で覚えればいいんですかね。

まずは、そこらへんの論証ごとのランクってのを自分なりに整理しないといけません。
すべての論証パターンを完璧に覚えられるはずがない。

必ず覚えなきゃいけないもの、覚えるべきもの、覚えたらベターなもの、覚えなくてもいいもの、
その分類を行います。
一通り伊藤塾で論文マスターは受講しました。
その結果、よく使う頻出の論証も理解したつもりです。

よって、今すべきことは、論証パターンの正確な理解。そのうえで暗記。
これは、テキスト精読と並行しながら行っていきます。

一番あってはならないのは、「わかったつもり」の理解でいること。
つもり、で止まっていると、そこから発展した応用ってのができません。

基礎を完璧に固めつつ、論証パターンごとの理解、それぞれの体系的な整理。

さらに、もう一度過去問にあたりつつ、自分なりに書いてみて、疑問点を抽出。
なぜ、ここでこの論点が出てこないのか。なぜ書かないのか。
問題提起とあてはめのやり方。

ひとつずつ、クリアしていきます。

今しか勉強できない。
今やらなくていつやるんだ。
って自分に言い聞かせながら、密度の濃い勉強をしていきます。

設定期間まで、残り132日。
一日を大切に。

論マス終了

本日、論文マスターの受講が終わりました。

あとは、答練だけになります。

とりあえず、インプットだけいうと一通り講義が終わりました。
気が付けば勉強を始めてから2年と少し。

やっと、やっと、一週目が終わった感じがします。

やっとここまで来た。
だけど、ここで折り返し地点。

来年、必ず予備試験に受かる。
それを前提として、来年の短答試験までの9か月。

まずは計画をたてようと思いました。

そこで早速ですが、
8月~12月
テキスト(基礎マスター)精読。
及び論証パターン暗記。
毎日「書く」。

1月から答練。
2月までの2か月で全教科終わらせる。

3月から短答対策開始。
論文対策としては毎日「書く」。

5月20日頃短答本番。
7月論文本番。
面接も受かって合格。

よし。
いける。

自分に言い聞かせて。
ゴールがわかれば逆算するだけ。

苦しい時こそ機械的に淡々と。

私事ですが、約半年、プチ単身赴任生活が始まります。
平日は、妻も子供もいません。
しっかり勉強の時間が確保できる、最良の機会です。
これはチャンス。

と思って、行動指針をたててみました。


①10時就寝、5時起床
②毎日15分のジョギング
③隙間時間は、常に試験のことを考える≒受験者脳になる

こんなところです。
仕事は8割でOK。多少犠牲にする。
朝の2.5時間、本気で勉強する。

本気の「受験生」になろうと思います。

社会人だからこそ隙間時間を使って、そしてそれを濃い時間にする。
暗記したものは日中思い出し、定着させる。
確実に進めていく。


時間ができる今しかできないこと。
自分のすべてをぶつけます。
今からが、勝負です。

お喋りが、したい

ただ純粋に、お喋りしたい。

そんな気持ちで、バーへ通います。

僕はビール、特にクラフトビールが好きでビアバー開拓が趣味なのでですが、最近分かってきたのは、おいしいビールを飲みに
いってるのはもちろんですが、そこで美味しいビールを一緒に飲んでる人たちと楽しさ嬉しさを共有したい。
その一心で、ビアバーへ通ってる気がします。
そんな自分がいることに、気が付きました。


ストンと理解できたんですが、本を読んでて、こんな言葉がありました。
「美味しいお酒を飲みにいってるけど、結局はそのお酒を選ぶマスターを好きになって人を好きになって通い詰める」
その通りです。

結局、「人」なのかなぁ。
そんな物思いにふけた真夏の夜でした。


例えば一般論として
大好きなモノがあっても、それは人が作るモノであり、
大好きな空間があっても、それは人が作る空間であり、
素晴らしい過去がっても、それは周りの人たちがつくる過去であり、
大好きな人がいたとしたら、結局やっぱり「人」なんじゃないかって。

どうあがいても他人とのコミュニケーション無しで生活は出来ません。

一人焼肉ってもの流行ったのが少し昔で、
一人で気楽にごはんを食べるってのも楽だし気分転換としても重要だと思います。

ただ、好きな人たちと、好きなコトをしている時間。
好きな人たちと、好きな食べ物を食べてる時間。


このブログでも何回か書いてきましたが、
僕は「承認欲求の対象」ってのは人によって違うと思います。


その「承認欲求の対象」のカテゴリーの人たちと、要は「貴方に認められたい」って人たちとお喋りする時間。
コミュニケーションをとっている時間こそが、人間を人間たる時間にしてくれる。
そんなものじゃないでしょうか。


美味しいお酒をただ飲みに行くんじゃない。
美味しい料理をただ食べに行くんじゃない。
それを共有できる人たちと、お喋りする時間こそが、真に求めているものだ。


っていう仮説、どうですか。
あながち間違ってもない気がします。

自動車の社会的費用

端的に言って、僕は自動車が嫌いです。

運転するのが好きではありません。
得意でもありません。田舎に住んでるので、仕方なく毎日運転しています。
極力電車を使うようにし、自動車の運転を避けています。

僕が一番嫌いな音は、自動車のクラクションの音です。

さらに言うと、「仕方ない」からと言って車を運転している人はもう少し考えたほうがいいと思います。
自動車を運転するリスクを。

自分が一番違和感があるのは、自動車ってのは『過失なく人を殺す道具』であるということです。
逆に言うと、過失なく自分があるいは家族が、事故により障害を負いあるいは生命を奪われるリスクがある。

自分だけ乗ってるときはいいんですが、子供とか乗せて運転してて、対向車がはみ出してきて当たってきたらどうしようって、
実は常に考えています。
そういうとき、誰がリスクをとるんですか。

相手の運転手が悪いのはもちろんですが、そもそも車を運転しなければいい話だ、ってのが私個人の見解です。

「自動車を使うことにより得られる便益」ってのは特に田舎に住んでいれば不可欠ですが、
運転せざるを得ない環境にあり、電車あるいはバスという公共交通機関を選択できない不利益、
これを社会システムに組み込んでもいいと思うんです。


都市では公共交通機関も発達していて、「自動車に乗るか乗らないかの選択」をできます。
つまり、自動車を乗ることにより発生するリスクを覚悟の上、選択できるわけです。
酒も飲めない不便性も。

それに対して、そもそもその選択権が無い地方(田舎)は、リスクを取らざるを得ない現状に対してなぜ補償をする、
という議論が発生しないのか、不思議でたまりません。


僕みたいな転勤族が、好んで地方都市に住んでるわけじゃないんです。
好んで毎日自動車を運転しているわけではないんです。


タイトルの「自動車の社会的費用」とは著名な経済学者・宇沢弘文氏が書いた有名な本で、学生時代に読みました。

高度経済成長期、自動車の利便性が語られた時代に、極論として「自動車の社会的なマイナス面」に着目し、言及した。

感覚的には、言いたいことは非常にわかります。
今では当時みたいに排気ガスによる問題などそんな次元はクリアしているのかもしれません。

しかし、そもそも上記のとおりリスクをとらざるを得ない環境に置かれ、
それを負担するだけのこの現状は、おかしいと思います。


ここからはわがままですが、
もっと自分が住んでいるような田舎でも公共交通機関が発達して、電車通勤したいな。
ってのが心からの祈りです。

『これが当たり前』
そう思い始めたら
終わりだと思います。
感じる違和感は大切にし、丁寧に言葉にしてこうやって記していきたいです。

学問とは

学問とは、
想像、共感、承認。
その過程だ。


っていうのをいきなり考え出したりしました。
いきなりすぎる感はありますがw

歩いてて、大学4年間って何を学んだんだろうって考え始めて。
そもそも学問って何だろうって考え始めて。
そんな表現にたどり着きました。


個人的に凄い違和感があるのは、大学で学問を学ぶのを、
自分の社会での市場価値を高める”手段”として捉えている風潮。
どの学部が”就活に有利ですか” ”稼げますか” ”役に立ちますか”
なんて質問。

学問とは、そんな小手先のテクニックで身につくものではないですよね。

僕自身は経済学部でしたが、大学4年生は公務員試験そっちのけで、経済学部を勉強しました。
とても楽しかったです。
朝から晩まで図書館でいて、誰よりも本を読んでる自信がありました。

学べば学ぶほど学問って何だろうって問いに対する答えがわからなくなって、それを探すのが学問だなんて自分の中で定義してみたり、もがいていたのを覚えています。
勿論、今もまだもがいていますが。

もう一度、冒頭のフレーズを。

学問とは、
想像、共感、承認。
その過程だ。

これは、今の僕の仮設です。
ただ一つ分かったのは、学問とは知って身につく知識ではなく、
「態度」であるように思います。


他者を知り、自分を知り、コトバを知り、思考を知り、生きざまを知る。

未知の何かに接したときに、いかなる態度をとるか。
観察し相手の言い分を把握する。
相手の思考の出発点を知る。
妥協点を探る。

この流れこそが、
想像、共感、承認。
その過程 であるように思います。


特に昨今ネットでの言論は表現の自由ということで激しい意見の対立も目立ちますが、
以上僕が語った文脈の中では、
学問的に未熟な人=教養がない人=”自分の意見しか言わない人、他人へ耳を傾けない人”になります。


社会に不満があるからという理由で、人を刺す人がいる。
子供に暴行をする親がいる。
宗教上の対立で、殺し合いをしている人がいる。

この事実を聞いて、思考は行われていますか。

「あー怖いね」「そんな人いるんだね」で終わる話では無いと思います。

こんな部分で真剣に、少し時間を使って自分の頭で考えてみる。
それが、僕が目指す大人の像です。

かっこいいコトバを最後に。
cool head but warm heart


プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウント^^
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR