公務員と、主体性

東京都では盛り土問題(?)とか大変ですね。。。
今回のような長期的な政策は、知事も変わり担当者も変わりしてしまったら情報収集が困難ですよね。
結局求めているのは、何が原因か、であると同時に、誰の責任か、ってところにあると思うですが。


行政の安定性は、国の経済力を支える非常に重要なものです。
人が変わったからといってコロコロ意見を変えるようでは、組織としても機能しているとは言い難いですよね。

誰がそこに座っても、組織を機能させる。
それが人事であり、存続命題であるように思います。



ただ、それをその組織の一員である公務員としては、どんな見方になるのでしょうか。
政府を支える、社会をまわす、行政を担う公務員って、どんな主体性をもって仕事に取り組めるのでしょうか。


結論から言うと、少なくとも「仕組みとして」民間企業と同様に主体性が評価されるものではないと思います。
悪い言い方すると、誰かがやる仕事は誰かがやるし最低限与えられた仕事をこなせばOK,っていう風潮。


そもそも公務員、例えば一般事務職に求められるスキルって何でしょうか。
僕が考えるに、読解力・利害調整能力・論理的思考力。この3つかなと思います。

逆に言うとこれらを備えていれば立派に「公務員を果たせる」訳であり、それを試験ではかっているものだと思います。


そして、公務員の仕事って何でしょうか。
それは簡単にいうと「法律の執行」です。

国民の意思決定をこなす。
それが根本的なところです。
だとすると、そこにどうやって主体性を見出すのでしょうか。

少なくとも、組織の中で部、課、係と定められているように、業務内容は振り分けられています。
つまり何をすべきかはその段階で決まっています。
与えられた仕事をこなす、その意味では主体性を肯定することはできると思います。


ただ、合理的に考えて、リスクをとってまで、「与えられた業務」の枠外まで積極的にやろうとは思いませんよね。
生々しい言い方ですが、結局、誰しも、処分は怖いんです。
ある政策を採用した。その責任者は。
ある契約を発注した。担当者は。
おいおい責任を取ることがないように、無駄なことはしない。
積極的に、業務に関係ないことまで良かれと思ってやったところで、自己満足で終わるか、
上司から評価されるだけです。評価されたところで、予算の面もあり、運がよければ少しボーナスが増えるレベルですw
ぶっちゃけ、ここまでくると「やったところで・・・」ってう発想にならざるを得ません。
個人的見解というより、「仕組み論」として。


また、責任の所在を探すにしても、処分対象の個人を探すにしても、
結局は何かしらの行為をしたからであって、「不作為」を責められることはほぼありません。


やらなきゃいけないことをやるってのが本質であり、特に企画立案、制度設計に直接携わる中央官庁の職員ならなおさらです。


ここまで書いたらわかる通り、「スーパー営業マン」はいても「スーパー公務員」なんて存在しないと思います。
土日に、地域密着型系のボランティアか活動されてる方も多いですが、それは素直に尊敬します。
ただ本業で「バリバリな公務員」っていないですよねw


公務員の仕事はあくまで受け身です。
法律を執行するってことは、何をするにしても根拠を法令に求められるというわけです。
逆に言うと根拠がなければできない。
何かしらの「モチベーション」があって公務員になったのなら、少なくとも一般行政職っていうのは、
それを維持するのはとっても困難な気がします。
僕も、職務として求められている、最低限の職務専念義務は果たしていますが、モチベーションは無くなっちゃいました。

何のために働いているかを自問自答している毎日。おやすみなさい。
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社会を変えるものは

社会を変えるのは、社会を良くするために必要なのは、責任感。

今日一日考えた結果がこれです。

・・・どうでしょう?w


ただ、いろいろ考えて、酔っぱらいながらも考えたんですけど、
っていうか逆に酔っぱらってないとこういうブログ書けないんですけど、(過去、シラフで書いたものはないです)
前回の記事
でも書いたように、自分を肯定するものは、「他者からの承認」であって、
その蓄積が、「自己の承認」の必要性であって、
自己への承認が蓄積された結果生じるのは、「社会への責任」であって、
自分じゃない誰かのために自分の思考を使うこと、
って流れになるのじゃないのかと。


「自分の思考を使うこと」
多分、これってものすごい力が必要なんですよね。

特に仕事をし始めてわかったんですけど、
「考える」事っていうのは物凄いパワーが必要です。

声を大にして言いたいので文字を加工して協調しましたが、
間違いなく言えることです。

自己保身のために考えることなら、それは合理的な判断っていう結果で終わると思いますが、
潜在的に、希望的に、
「自分以外の第三者あるいは不特定多数」のために思考をする瞬間こそが、
人間が一番「考える」力を発揮できるときであり、
そう意味では仮設ですが、
相互的に「互いのため」「不特定多数の第三者のため」モノを考えるときに、
それは最大限発揮されます。



タイトルに戻りますが、
まず
「特定の何か」を変えるために必要なのは、『思考』です。
そして人が集まった社会を変えるためには、良くするためのは、
必要なのは「他人への想像力」。
利害関係の無い他人に対する想像力こそが、今求められているもの。


尊敬する教授(Wiki)が定義した言葉を借りると、
「社会的共通資本」の本質は思考にある、っと僕は思います。


経済学を学んだとき、(と言っても本気で図書館にこもって勉強し始めたのは22歳大学4年生でしたが)
感銘を受けたコトバは「cool head but warm heart」です。

何かに感じるだけじゃなく深く冷静に考える。
経済学教授ってなんてカッコいいんだろうなんて思ったりしたのも5年以上前です。

ただ、あの時受けた感銘を今でも忘れてはいません。




結局僕みたいな特に何かしら能力が優れているわけではなく、
ただ何かに違和感を感じてる大人になる前の若手社会人。

そんな僕には、考えて、学んで、考えて、そしてたまにこうやって文字にする。
この繰り返しが必要な気がします。



一つ確信してるのは、『自分ひとりの力じゃ、社会をどうにもできない』。
例えば革命家が居たとしてそれが力となるのは賛同する人の量、っていうように、
最終的にはボトムアップで人の共感を吸い上げながらそれを形にする方法が認められるわけで。



またダラダラ所感を書いちゃいましたが、
結論に変わりはありません。



そして、最期に宣誓。
僕は考え抜きます。

法律とか、正義とか

当たり前なんですが、司法試験(予備試験)受験性なんで、法律をめちゃくちゃ勉強しています。
ふと考えたりします。
そもそも法律ってなんで必要なんだろう、何のためにどんな考えから今の法律が出来上がったのか、なんて。


もちろん憲法とか、民法とか、行政法とか、各法律によって求められている規準は異なってくると思いますが、
そして刑法にはこの考え方は顕著だと思うんですが、やっぱり個人的には背景に「正義」ってのがあったりすると思うんです。

刑法では、刑罰として列挙されている構成要件は、これはさすがにだめだろ、って発想から生じたものです。
人を殺すのはもちろん。殴ったり、物を奪ったり、人としてやっちゃいけないこと。

ただ、正義ってなんですかね。
正義の実現。
いいコトバに見えて、何となく何を意味しているのか、抽象的過ぎるフレーズですよね。


少なくとも、「正義を実現する」ってのは
「正義」っていう価値観を、多数の人々へ広めようとする、その行為にあると思います。


これに対し、
「特定の価値観の推奨」について、逆から考えると、
「多様性の承認」になる、と思いますがどうでしょうか。


つまり、正義を実現するっていう崇高な目標があるのはいいとして、
しかしその「正義」ってのは個人的な主観の要素がある以上、すべての人に押し付けるのはよくない。
そもそも世の中に「絶対的な指標」ってのは存在しません。

結局は個人の主観的な「これはだめだ」が集まって客観的な「正義」としてみえるだけです。

「人のつながり」ってのが徐々に形が変わってきている現代ですが、
一番重要なのは「異質」(と自分は思っている人)を認めることだと思います。

何が異質か。
彼or彼女が異質なのか、あるいは逆に自分が異質なのか。


「良い社会を作る」にはって個人的に考えたりもしてきたんですが、
今日のこの考え方をあてはめて、逆に考えて
社会から「はみでた者」を0にするためにはって考え方にも、可能性を感じてきました。


わかりやすく言えば承認欲求の充足。
はみ出た人にそう思わせないような「承認」「肯定」。
そもそもはみ出るって言葉こそが主観的であって、誰からの承認を受けなくなった段階でそう感じるようになるだけじゃないでしょうか。



色々脱線しましたが、
法律を学びながら、
正義、価値観について考え、
行きついたところはいつもと同じような着地点の気もしますが、
『多様性の承認』ってことです。


あなたは異質じゃない。

この自覚(を与える行為)こそが、社会を良くする。

僕はそう思います。おやすみなさい。

3連休も終わって

勉強時間は合計20時間くらいですかね。

憲法については過去問も解き始めました。
伊藤塾で申し込んだときのセットでついてきた過去問集。
だいたい憲法は今正答率50%ちょっとくらいですかね。

3日間とも、カフェでガッツリ時間かけて問題解けたので、考える時間ってのは少しでも多く確保していこうと思います。

明後日にでも、刑法も1週目が終了し実体法3科目(憲法、民法、刑法)が一応終了する予定です。

明日からまた仕事が始まりますが、改めて自分に言い聞かせたいと思います。
仕事は手段。
今の職場もどうせやめるのだから、最低限でいいとw

尽くす必要なんてなく、何も捧げなくていいし、終われば帰る。
それでいいと。


いろんな本も読んできましたが、やっぱり目標を達成している人って、考え方はやっぱり”ドライ”なんだと思います。
徹底するトコロは徹底する。

定時退社とか、休み時間は勉強or読書とか、その姿勢。
特に僕みたいな、たいして良く頭が出来てる訳でもない一般人が、いわゆる難関資格にチャレンジしようとしてるケースは、
なおさらですよね。
「司法試験合格」っていう目標以外はすべて切り捨てて、その一点に絞ってできる限りの努力をする。
これが当たり前の姿勢であり、逆にそうしなと受かることはないと思います。


別の言い方をすれば、「スマート」に目標を達成することなんてできやしないと思ってきました。
僕も転職を決意したのは必死に考えて、あがいてもがいた結果だと思ってますが、
受験勉強もそんなもんだと思っています。

あがいて、もがいて、必死に考えて、こうやって文章にしたり、反省したり、たまに嘲笑されたり、
その繰り返しじゃないでしょうか。

と同時にそんなこと考えてたら、現段階では仮設ではありますが、あるフレーズを思いつきました。

困難なハードルを越えるとき、「普通」じゃない事をやり遂げようとするとき、
それが一般常識的に考えて「意味がわからない」事をやろうとしてるとき、
そしてその時にたまに批判されたりするとき、
それでも、自分では明確な目標があり、曲げることのできない確固たる信念がそこにはあるとき、
その条件で、あてはまるんじゃないかな。

『嘲笑を称賛に変えるのは、孤独』

これを検証するために、というよりも立証するために、引き続き頑張っていきます。
皆が楽しんでる3連休、そんな時間にいかに「一人の時間」を確保し勉強できるか。
多分、その積み重ねがものすごく重要な気がします。

勉強進捗状況(あと251日)[司法試験予備試験]

勉強開始より100日ちょっと。
2017年司法試験予備試験まであと251日。

民法、憲法について、受講が終了しました。
いわゆる一週目ってやつですかね。
基本的には朝1講義、帰宅後2講義で、1コマ1時間の講義を1.7倍くらいで見ているんで、だいたい講義聴く時間だけで2時間ちょっとくらい。あとは通勤時間、昼休みの空き時間に、短答を解いたりしてます♪

まぁここで♪マークがつくくらい焦りが今はなくて、本当は焦らなくちゃいけないんだけど、いろいろ理解しながら知識も増えている段階なのでぶっちゃけ苦じゃないです。ここから受かるための正確な知識の定着をはかるってなると、次元が違ってしんどくなるのは、なんとなくわかりますね。

今月でできるだけ憲法およびできれば民法も総復習して、講義は刑法を受講しながら、論文書く練習もしていきます。

今日はカフェでこもって憲法過去問ずっと解いてましたが、本当に思った以上に間違えててつらくなりましたが、
最初に書いたように学んだ場所もたくさんあったので、実りのある日となった気がします。

今週末ではたぶん15時間くらい。
とりあえず平日3時間、週末で15時間。
この数値はキープしながら、モチベーション保ちながら頑張ります。

やっぱりアレですね、これじゃ受かんない。
隙間時間はずっと考えないと。
”テーマ”を決めて考える。この癖をつけないと。
今は恥ずかしながらテーマを設定できるほどの知識がないので、
法的思考をする上でどんな問題があるか、どう対処するか、条文の趣旨など、
理解しては繋げていくって作業。大切にしたいですね。

来週も頑張りましょう。おやすみなさい。

プレーヤー、異端者と相互承認

前回の記事でも少し、書きましたが、そして今まで何度も書いてきましたが、
人の考えってのは環境で決定付けられるって話。

その延長で今日は少し考えたいと思います。


というのも、人の生活ってのは、3つのパターンしかないのかなーなんて考えたりしてました。


①決定付けられたストーリーの中で、自分自身はそれをただ演じているプレーヤーという自覚がない人
②決定付けられたストーリーの中で、それを知ってあえてそう演じる人
③決定付けられたストーリーの中で、それを演じることに抵抗する人



満員電車の中で埋もれながら通勤するサラリーマン。
新橋で焼き鳥つつきながら狭い居酒屋で語るサラリーマン。
シルエット気にしながらヒールをコツコツ鳴らしながら歩いてくお姉さん。
とりあえず皆で集まったらバカをしようとする大学生。
コーヒーとたばこ片手に3時休憩をする作業員。
カップラーメンをすするSE。

なんか皆いろんな人生があるんですけど、
多分皆、「これでいいんだ」「こういうのでいいんだ」って、
像を重ねてるんですよね。意識しようとせずとも。

多分それは僕が上で言った「決定付けられたストーリー」であって、素直に演じるプレーヤーがほとんどです。
ただ、上の①と②の大きな違いは、「やらされてるんだから、しない自由も自分にはある」ってことを気づくか気づかないか、です。

それに気づいて、あえて抗う。
サラリーマンってのは普通こんなもんだ。だけど俺は・・・って発想。

チャリ通して出勤するサラリーマン、なかなか居ないですよね?w
そんな感じです。僕自身は普通なサラリーマン演じてる自身があるので、そんな突飛な発想はしませんがw
まぁただ、”公務員”っぽいって言われるのには抗ってる感覚はあります。
よく初対面の人に営業マンっぽいって言われるのでその都度うれしいかぎりですw



長くなりましたが、結局は最初に示したこの3パターン。
これはどのコミュニティの人も分別できる気はします。
そして思うんですが、たぶんこれって職業別以外にも応用できる考え方であって、
例えば「大人ってこういうもんや」的な考え方。
これも結局”演じさせられて”いますよね。


多分、この「こんなもんや」的な発想の源は『人間が社会的生物であり他者からの承認を求める生き物だ』って定義からくると思うんです。
「こういう」感じにするとそれっぽいから「わかってくれる」。「溶け込める」。
認めてくれる。
それでお互いに承認をしあっているんだと思います。


そしてこの文脈で、その相互承認から外れた③、つまりアウトサイダーとも捉えられかねない人たち。
彼ら彼女らを、如何に相互承認のサイクルに組み込むか。
これを考える事ってものすごく有用じゃないかって閃いた夏の終りでした。

さ、勉強します。
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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