罪と罰、正義

今生きてる社会では、毎日どこかで何らかの罪で人は逮捕されています。
犯罪を犯す人がいて、人を殺す人がいて、死刑になって、
日本中で、殺人者は逮捕されています。

殺人。
自分とは全く関係のない世界。
少し頭がおかしい人、狂った人、理性的な判断ができない人が憎しみの感情を我慢できずに人を殺す。

いわゆる「あっちの世界」であり、テレビの向こうでフィクションに見える気もします。
少年による殺人事件は昔より減ったみたいですが、
逆にたまに発生するそれは猟奇的に見えて、マスコミも”劇場化”してそれを取り上げる。


本当に、そうやって罪を犯すのは、頭の狂った一部の”変わった人”の行為なのでしょうか。

僕はそうではないと思います。

この社会が生んだ一人の人。
誰しもがそうなるかもしれないというリスクを持ってて、
自分自身の転換可能性も、少し歯車が崩れるだけで全然ありうるものだし認めるべきです。

少なくとも、例えば殺人を犯す人って、「異常」なのでしょうか。
生まれた時から潜在的に人を殺す可能性をもっていて、何らかのきっかけによりそれが顕在化しただけなのでしょうか。

そもそも、なぜ人を殺すのでしょうか。


もちろん、この問いの答えに「自分の憎しみを晴らす」ためっていうのはあると思います。
ただ、僕がここで言いたいのはそうじゃない。


たとえばよく車乗る人ならわかると思いますが、クラクション鳴らす人って、誰のために鳴らしてるんでしょうか。
もちろん、運転している自分にとって邪魔だから。
ただ、それだけでしょうか?

そう、”皆のため”に鳴らしているような気もするんです。
安全運転を心がけているような全ドライバーを代表して、「あなたの運転は危ない。急に止まったらどこかで事故っちゃうぞ。」と。





同じ理屈ですよね、おかしいかもしれませんが、人を殺めるときも、「皆のためになる」ってのを信じてやってるケースもあると思おうんですよね。
相模原市の障害者福祉施設で起きた殺人事件も、根本的な部分はそこにあるんじゃないでしょうか。

オウムのサリン事件だってそうですよね、信者は「絶対的善」な行為だと信じて人を殺すんです。



本質的に、絶対的に、「悪」な人なんかいないんじゃないかなとは思ってます。


今日のブログで僕が言いたいのは、僕たちが「善」だと思ってることも他人によっては「悪」となりうるし、
逆に人を殺す、罪を犯す行為は基本的に”一般人”からすれば「悪」な行為ですが、
それを「善」と信じて行った人もいるってことです。



結局は、何度も言っていると思うんですが個人が所属する集団、コミュニティによって決定つけられると思うんです。
刑罰法規ってのは”社会通念上””一般人が”考えたときに危険な行為を「罪」として規定しているものです。

この”社会通念上”、”一般人”ってカテゴリーって、どこからどこまでの事を言っているんでしょうか。
そこに属さないコミュニティで育って人、生活してる人はどんな価値基準を持てるのでしょうか。


「罪を犯した人は悪だ」
これほど幼稚で、短絡的な思考はしたくありませんね。

罪を犯した人はそれを「正義」と思ってやってる場合もある以上、
そもそも正義って何だろうって問いを考えてみることが、一番社会のためになる気がします。
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言葉についての、そもそも論


言葉を丁寧に使える人って素晴らしいですね。

適切な言葉を選び、適切なタイミングで使える力。

僕は昔から適当な発言が多いという自負自覚があるので、少し反省しなければなりません。。。



使う(選ぶ)言葉に、その人の生きざまが反映される、というのは言い過ぎでしょうか。

美しい言葉を選ぶ人はきっと思考も美しい。
性格もいい。
そのイメージはわきやすいと思います。



きっと、言葉とそれを使う人の考えってのは、密接に関連しているというよりも同一のものとみなしていいのかもしれません。


今考えていることは、「自分の感じた感覚を言葉で表す」のではなくて、
逆に「言葉で表した後に」感覚を感じる。
言葉が思考を形成する。

つまりこの意味では、新しい言葉の組み合わせで新しい世界観が見えてくるようになるってことです。

そのためには、多様な言葉を知る必要があります。

名詞、形容詞、動詞、副詞、
組み合わせはそれこそ何億個になるでしょうか。

ランダムな組み合わせ、無秩序の中で閃く何かがあるような気がしてなりません。

こういった言葉ゲームが思考の深度を深くし、教養を高めるように思います。

いつも使っている言葉。
話し言葉より前にまずは書き言葉。

ちょっと立ち止まって考えて、今使っている言葉たちの可能性について考えてみると面白いかもしれません。


今日帰りにビルの合間を縫って、夕日に照らされた東京タワーがきれいで何とも言えなくて・・・

何とも言えない自分が寂しくなったして言葉についてのそもそも論を、考えてみました。


想像力。

前回の記事から。

そもそも”想像力”とは何かって考えてみました。

「そして人間の特質上からしても、平和ってのはこうやって人間として相互に地球上の違う環境に置かれた人々のことを考える行為自体そのものを指すのかもしれませんね。」っていう記述を前回最後にしたところで、
これっていわゆる想像力ってことかな、なんて思ったりして。


一般的に言われる想像力ってのは、「ある感覚に対してそれを別の媒体で思い描く力」っていう定義になるのでしょうか。
思い描く力、つまり具体的な能力としてみなされているのが一般的だと思います。

よく見るフレーズですよね、「想像力を働かせろ」って。
ビジネス本にもよく書かれています。
ただ、ここでちょっと、学問的な観点で見るとちょっと違った意味になると思うんです。


そもそも例えば、経済学者って何のために学問をしてるのでしょうか。
真理を発見するため?世の理を見つけるため?
純粋で誠実な学問ってのはたぶん「想像力」から始まるように思います。


つまり、「他者への思いやる気持ち」。

そして僕は「想像力」をこう定義します。『他人のことを思いやる気持ち、及びその意志の強さ』

普通に生活してて、
冷静に考えれば、ただでさえ生活するのに必死なのに、少し隙間時間できたら何しますか?
よくある光景としてはスマホいじりながらSNSチェック。ちょっとしたゲーム。
はっきり言って、「他人のことを考える」余裕なんてないと思うんです。

脳を使うってものすごい体力いりますよね。
はっきり言って考えるのは面倒くさい。
休みたがる脳。


気になってる異性のことは積極的に今何してるのかな・・・なんて考えたりするかもしれませんがw
誰かのことを真剣に考える動機ってそもそも非常に希薄じゃないですか。


華やかなオリンピックが行われていますが、
地球の裏側では今飢餓でたくさんの人が死んでいます。
考えられない人が戦争で殺しあっています。


ここで少し立ち止まって見る。
当事者の気持ちになって考えてみる。
この行為そのものに対して「想像力」って定義付け出来るんじゃないかなとか思ったりしました。



以上、私見です。
実世界で使う言葉は少し違うと思います。

ただ、思考力そのものよりもまずは突き動かされた感情、共感。
brain の前にまず heart 。
社会に責任を持つ態度。


「力」を「行為」として捉えるのは無理があるでしょうか。




多忙な社会人。
ただ少し、他人のために考える時間を確保できれば、
その余裕があれば
それこそ僕自身がずっと考えているテーマですが、
皆が住みやすい社会になっていく気がします。

哲学的な問い。

哲学的な問い。
「なぜ自分は生きているのか」
「何のために自分は生きているのか」
っていう問いを聞いたりします。

たぶん、僕は
他人より哲学書を多く読んできた自負自覚はあります。

そしてたまに、というよりそれなりに多い頻度で感じる「虚無感」。
何のために生きているんだろう。
哲学ではどう考えられるんだろう。
そもそも人間って・・・。っていう答えなんか出ない問いに、考えたりします。


そしてこれも今の自分なりの仮設ですが、哲学始めた人に
「哲学ってのは、人はなぜ何のために生きているのかを考える学問だよ」って、
ちまたにおいてる本みたいに教えちゃうのは不親切なんじゃないかなってこと。
「俺、何のために生きてるんやろな」ってのはちょうど中学校2年生くらいで感じる違和感であって、
生き延びていくためのヒントにもならないこと。誰しもが試行錯誤してながらもがきながら生きてるってこと。

わかりやすくシンプルな問い。
哲学的で本質的な問いというのは
『生きて何を考えるのか』ってところじゃないえすかね?

一つ言えるのは、みんなそこまで暇じゃないってことです。
仕事に追われ、遊びに追われ、家庭サービスに追われ、勉強したり、バイトしたり、たくさん寝たり。
「考える内容」、考える質ってのを問われている。
それが哲学の本質だと思います。


逆に言うと、今はスマホゲームも含めて
「無思考でいられる時間」ってのが非常に多くて、
そういう意味ではすごい誘惑されてるわけです。
居心地いいんですよね、何も考えずにゲームしてる時間。

ただ、景色見ながらボーっとする時間とスマホいじってる時間は決定的に「無意識レベルで」違うように感じるんです。

話は戻りますが、どう定義づけようと、哲学っていうのは「考える」ことを考える学問ではあるように思います。



人は何を考えるのか。
何を感じれば、どう考えるのか。
何を言われたら、どう考えるのか。
何を見たら、どう考えるのか。

人が考えるキッカケってのを突き詰めれば、そこにヒントになるものがあるような気もします。

選挙という民主的手続きも終わってひと段落して、
『思考停止社会』って語られるのが通説になりつつある現代で、
考えるって行為、人間の人間たる存在意義、原点について考えてみました。


どうあがこうと自分は「個人」であり社会を作る一人であり、
有権者でありその意味では社会に責任を負っています。


誰しもが個人として責任を持つ社会であり、そのために一人一人が考える
っていう過程が機能すると、それこそ最良の民主主義の形態になるんでしょうね。


僕も自戒を込めて文字にします。

オリンピックで「日本チャチャチャ」って応援するにしても、
同じ地球上で殺し合いをしてる人間がいることも頭の片隅に置きたいですね。

そして人間の特質上からしても、平和ってのはこうやって人間として相互に地球上の違う環境に置かれた人々のことを考える行為自体そのものを指すのかもしれませんね。

試験勉強

一日朝30分、電車での出勤時間に15分、昼休みに20分、仕事帰りに電車で15分、帰宅後2時間。
合計3時間20分。

土日は計10時間。
こんな感じで勉強してます。


思ったより働きながら勉強するのって、受験生になるのってきついですねw

転職というか、弁護士になることを決意してから2か月少し。
気づいたことは、それなりの金額で投資するとやらなきゃって使命感がものすごいってこと。

意思とかモチベーションってなんだかんだ、あとからついてくるものなのかな、なんて思っています。
「なりたい」って気持ちは間違いなく必要だと思います。
ただ、なりたい、だけじゃ足りない。

そこには仕組みが必要で、
例えば職場環境がひどく劣悪で毎日転職意欲をかきたてるような生活を送っているとか、
なかなかの金額を投資し後戻りできない状態であるとか、
莫大な時間を費やしてきたものであって今になって手放せないものだったり、
ある種の「使命感」。
これを仕組みづけるのが非常に重要な気がしてきました。




たぶん、僕のこのままの勉強だと来年の予備試験合格はほぼ無理だと思います。
受かる人のブログとか合格体験記見てても、受かるべく事をこなしてますね、
つまりは「試験合格」のことしか考えていない。
逆に言うと、それ以外のことは捨ててます。

僕は明確にいつまでに転職する・・・とかそういった目標はありません。
これってすごいリスクですね。

淡々と、毎日勉強を続ける。
来年は予備試験の短答合格、再来年は予備試験合格、翌年度に司法試験合格。
3年スパンになりますが、頑張っていこうと思います。


ただはっきりしたことは、少なくとも「仕事を変える」って考えたときに、物事を考える範囲、分野がすごく広がりました。
今とは違って資本主義の舞台へ放り出される、その意味。
どうやったら稼げるか、食べていけるか。

これから社会はどう変わるだろう。
どんな需要があるだろう、
どういう風に自分は活躍できるだろう。
何をすれば自分の力を社会に還元できるだろう。

何が求められていて何を考えればいいのか。

脳の使い方が全然違うんですよね。

これは、無事転職に成功しようと、あるいはそれにものすごい年月をかけようと、
振り返ってもよかったと思います。


まだ立ち止まれない。
こんなところじゃ終われない。

そう自分に言い聞かせて、今日も寝るとします。



とにかくこの過剰なアルコール摂取を見直さない限り司法試験合格への道は険しい気がしますがw


プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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