ララピポ、とか格差とか、

ララピポ、グラスホッパー。
なんだか重い2冊を、連休2日間で読んじゃいました。
「社会の最低限で棲む人種」ってカテゴリー。

考えてみると、今まで歴史が経験してきたどんな国家も、どんな王朝も、どんな時代も「格差」無しなんてありえなかったんですよね。
そして改めて今それを考えてみても、格差が違う人々ってのは今生きてる社会でもいるワケで、さらに東京だけでみても
結構上の層から最下層までが似たエリアで生活しているわけですよね。

今回のブログで言いたいのは、「格差反対」なんて言いたいのじゃなくて、
格差は必然と生まれるんだからセーフティネットを準備しろとかでもなくて、
もっとこう抽象的な部分で「格差」って何だろう的な部分です。

何度もブログに書いたと思いますが、特に東京へ来てからは「格差」を実感する機会がメヤクチャあります。

そして今現在、格差を数値化するものとすれば「金」。これしかありえないような気がします。

金を持っていれば何でも出来る。
金が無いと何もできない。
自分の目標を達成するために、ではなく目的自体が「金を獲得」する事になる。


この文脈で何が言いたいかというと、金持ちかどうかだけが格差の指標ではないのじゃないか、って事だと思うんです。
一言で言うと難しいんですが、『教養』って言葉になるんですかね。
品がある、っていうと行動様式だけの言い方になるけど、思考の様式から格差って間違いなく生まれるものだと思うんですよね。

逆に言うと、今金は持ってるけど(考え方に)教養がない人って多い気がしませんか?
こんな僕みたいなやつが何言ってるんだ、ってなっちゃいますけどw


最近小説ばかり読んでて、色々感じるようになった気がします。
教養ある人って、言葉の選び方、そしてコミュニケーションでの態度が全然違うんですよね、たぶんw

ここらへんは僕の仮説になってるんで恐縮ですが、
文学をかじった程度の僕が考える事ですが、
「考えてそれを表現する。その行為について天才がいる。社会にとって1番やっちゃいけないのは、その天才を埋もれたままにすること」。

金なんか持ってなくても天才は居るんですよね。
再度言いますが、考えてそれを表現する。
表現行為は音楽、絵画、身体、そして文字。
多種多様な媒体を通して表現されますが、そんな天才を発掘する義務が、今を生きてる僕たちにはあるのかな、なんて思っちゃいました。




今頃ですが、タイトルのララピポ。
a lot of people の略で小説です。
小説読んで面白買って映画も見ようと思ってます。
様々な底辺の人々が這いながら生活していく過程。


全くこの小説の内容と関係ない気もしますが、考えちゃいました。
「金に還元されない天才的な事を考える人もいる」と。
全ての人の人生がある意味芸術な気がしてきました。
何故ならば全てにおいてストーリーがあって思考が介在してて、それも本気でやってる。



そして今ここまで書いて、なんとなく自分が言いたいことがわかってきました。
金に還元されない「凄い人」を発掘して逆に「僕は君を最大級に評価する」って意思表示をする、
社会の中で本当に生きるってそんなことじゃないんでしょうか?
難しい事じゃないですよね、「感動したことをただ伝える」その作業。

そしてその作業ってのが、今は「金」を媒体として行う手段しか皆知らないので、生きにくくなっているんでしょうね。



最後に、
なんか変な言い方になって勘違いされると困りますが、そしてあんまり冷たい言い方もしたくないんですが、
僕はあまり「人」自体は好きな方ではない気がしますが、一つ一つのストーリーには非常に興味があります。

金で手に入れるもの、入れないもの、
教養って何だろう。
色々考えさせられる3連休でした。(まだあと一日ありますよ)

おすすめです。(クリック)
スポンサーサイト

空気を読む 力

集団行動する上では必要ですよね、空気を読む力。
適切なタイミングで適切な役割を把握した上で適切な発言をする。
その繰り返しで「仲間内」ってものも確立されるされると思います。

相手の表情や仕草、わずかな動きを「察する」スキル。
これが空気を読む力、だといえるわけです。

ただ、今ではこのスキルが少し変化してきたように思います。

何故なら、相対的に昔に比べて「集団で」行動する時間が減少したからです。
じゃぁ独りでいる孤独な時間が増えたのか?
ある意味ではその通りだと思います。
ある意味、つまりSNSとかネットで『他人』と繋がっている時間。
これが昔に比べて圧倒的に増えた。
ネットで他人と繋がれるから、常に集団で行動することを必要とされなくなった。
承認欲求の満たし方が変わった。

そう言えるわけです。

SNSで他人と繋がる時に必要になるのが、いわば新しい「空気を読む力」です。
最近は、コメントは数値化されてます。
yahooニュースのコメント欄。
多い記事は1000個以上コメントがついたりしていますよね。
そしてその中でも代表的なコメントが取り上げられるというシステム。
代表的なコメント、つまりネットユーザーの意見を代表して述べてる言論。
この発言及び評価をすることが、新しい「空気を読む力」になっています。

特に目立つのは、反韓、反メディアの意見。
国や、大企業など、「権力を叩く」意見が非常に賞賛されてるみたいです。

面白いですよね、この意見形成過程。
気になるニュースを目にする→自分の意見を仮定する→他人の意見を見る→自分の意見が確立される
自分の意見が固まるまで、わずか30秒。
そこに議論の介在を必要としません。


これはTwitterでも同じですよね。
リツイートが多いtweetの特徴。
ウケるtweet。拡散されるtweet。
これは狙わないと出来ないものです。
そしてその狙い方としては、「自分が所属するとある集団を代表して見解を述べる」。
とある集団、それは実際に作られているものではなく、「なんとなく意見が一致していれば」集団な訳です。

そしてコミュニティが強化される。
作られては消え、ネット上ではこの新陳代謝はすさまじいものだと思います。

この新陳代謝の仮定でも、もっとも必要なのは個々の「空気を読む力」。
それに支えられて、現実的な言い方をすると世論が『作られ、強化され、弱体化され、消される』のだと思います。


例えば今日書いたこの記事を、「どの立場で」「どの角度から」「何を期待して」見るかによって、
この記事の位置づけは大きく変わります。
ネット上の言論空間の中でどの場所に固定されるかは、見る人によって変わる。

そんなもんじゃないでしょうか。

シンプルに、ムダを考える

ちょっと2,3冊ビジネス本を読み漁りました。
そこで1点、考える事が。

”合理的”ってなんですかね、一体。
”合理的”=自分自身に最大の便益をもたらす選択。
・・・そういうことなんでしょうか?

その前提で考えると、「ムダな事を考える」時間って非合理的な行為であり、
個人には何の便益ももたらさない悪しき行為ととらえざるを得ません。

「今日晴れたらいいなぁ」
「気になるあの娘は何してるんだろう」
「あの犬カワイイなぁ」
「あ、今日風邪気持ちい」

っていうような、よく小説に出てきそうな(?)フレーズw
『人間が行う合理的な行為とは自分自身の市場価値を高めることであり、それに全ての時間を費やすべきだ』
ってセンテンス、合か否か?


僕はどちらかというと逆で、人は「全力でムダな事に時間を費やすべきだ」と思うんです。
なぜなら、それが人間らしいから。
たまにいるじゃないですか、「ムダに全力を費やす天才」が。


特にこれからの社会、世界。
経済成長ばかりの時代も終わり、いかに余暇を過ごすか。
ここが着目されてるわけです。
一昔前は仕事ばかりしてたアフター5。
平均退社時刻も、今の若手リーマンは昔よりずっと早いです。(感覚ですw)

逆に、仕事が早く終わっちゃった社会人にいかに金をかけさせるか。
このビジネスモデルの延長上で、ソシャゲ課金ってのが確立されたわけですね。。。



すみません、少し話がずれました。
余暇が増える。
余暇で何する?
ここで”ムダな事”の概念が登場すると思うんです。

究極のムダって、芸術が多いですよね。
「絶対そんなの誰の役にも立たないけど、なんかすごいよね」ってプロいませんか?
そしてその究極のムダを介在して、新たなネットワークが出来上がる。
ムダがコネクションを生む。
そこに一つの「コミュニティ」が出来上がる。



思うんです。
これからは”ムダ”が人を支え合うと。
”非合理的な行為”が社会の基盤になると。


最近読んだビジネス本では”シンプルに考える”ってフレーズもよく出てきました。
これは方法論でしょう。良いじゃないですか。これを採用して、
「シンプルに、ムダを考える」
その向こうに、きっとふざけた『仲間たち』が待っています。

人はきっと、自分を活かすために、他人のために生きているんですね。。。

普段の”考える”時間

日中、暖かくなってきましたね。
来週も、ものすごい暖かい1週間だとか。
そんな週は、全国一斉に仕事休みにして皆でピクニックに行ったりしたいですねw

なんて冗談が出るのは今日が金曜日だからです。
今週もお疲れ様でした。

普段の生活で、仕事が忙しくなるほどありがちな事。
『考える』時間が確保できなくなることです。

「仕事以外の事で、どれくらい考えていますか?」
一見意味不明なこの問い。
ただ、結構これって重要な問いなんじゃないかななんて思ったりしてます。


「人は何から生まれてどう生きてどこへ向かっていけるのか」
なんて、哲学的な事を考えるべきだなんてことは言い過ぎだと思います。


ただ、人と人の結合で成り立っているこの社会。
そして自分はその中で、個体として「どう考えて、それってどんな位置づけなのかな」っていう問い。

・・・っていうのも、考え過ぎですかねw



通勤の電車。
朝。
半分はスマホいじってて、残り半分は寝てて、あと少しの人が本・雑誌を読んでる状況。
僕の住んでる沿線がこうなのかもしれませんがw


一般的なサラリーマンって、いつ考えるのかな?って思わされる光景でした。
そう、僕もいつもスマホいじるか読書なんで、「考える」って行為はしていないと自覚しているんですが。


こうやって考える「場所」「時間」「機会」が無いのって、死活問題になってくると思うんです、特にこれからの社会で。
「三上」って昔ながらの言葉がありますよね。
要は「ひらめく場所」。端的に言うと便所、布団の中、通勤タイム。

今って、スマホ含めて「インプット」ばかりに時間が費やされ、アウトプットをしていないので、
それ(アウトプット)を前提とする「考える」って行為がなされない。
そう思う訳です。



ダラダラ書きすぎましたかね、悪文すみません。
少なくともこれだけは言えます。

”思考の介在が無い社会はやがて堕ちる”
と同時に、
”社会は思考で成り立っている”

以上です。良い週末を(*^_^*)
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウント^^
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR