香川県、アートの島 「直島」へ行ってきました

瀬戸内国際芸術祭でも有名な、香川県にある「直島」に行ってきました。

端的に結論から言うと、「時間がゆったりと流れるような、落ち着いてかつ雰囲気が非常にいい島」でしょうかね。
べた褒めしてますが、本当に予想以上にいいところでしたw

最初のイメージは・・・アートの島、みたいなイメージだったんですね。
島の色々なところにあちこち芸術作品があり、それを腕を組みながら見るカンジ。
大規模・美術館のイメージでしたw

ですが、もっとその芸術要素意外に、例えば島独特の文化だとか、おしゃれなカフェだとか、眺めの良い砂浜だとか、全てが良かったですねw
特に私事で恐縮ですが、最近カフェ散策にハマっています。
梅田・中崎町周辺が非常に雰囲気が好きなので攻めていたんですが、あそこの島版みたいな感じだと思いますw

ここにはなんもないだろーって路地裏にポツンとお店がありますし、それがまたいい雰囲気を醸し出してる。
今回は車で行ったんですが、ぜひ次回はレンタサイクル、或いはバスで利用してみようかなと思います。


島内でのエピソードを1つ。
おそらく島に一軒しかないコープ。
男4人で、運転手以外昼からビール飲んでたんですが、
ビラを持った女の子がキャッチをしてきました。
コーヒー屋さん(テント付で宿泊も可!?)だったんですが、せっかくだし行くか!ってなってコーヒー飲んできました。
まぁその声かけてきた女の子が東京の大学生でそこでバイトしてたんですが、ボランティアで来てる、とのこと。
夜行バスで来たらしいです。何故ボランティアかって所は詳しく聞いてないんですが、さすがですね、立派です!
意識高い学生ですね。

このサイト
のカフェです。
コーヒー一杯400円です。
是非旅のついでに、行ってみてください^^v
ちなみに僕たちが映っている写真もupされていますw



まぁとりあえず、
普段の都会の喧騒から逃れるためには、これ以上ない場所です。
現実逃避がしたい人、本当におすすめします。
ぼーっと過ごす事の出来る場所、ですね。
日頃ないですよね、「何も考えない時間」ってものが。
改めてその時間の必要性、希少性を身に染みました。

僕は大都会大阪(!?)で働くサラリーマンです。
意識してないとどうしても毎日仕事に追われ・・・って感じで家に帰っても寝るだけです。
違う時間の感覚で生活している人もいるんですね。

色んな働き方、生き方がある。
僕はその中の一つを選んでいるだけで、自分の生き方が全てではない。
価値観も違う。


次は スローライフ について考えてみようかな、なんて思いました。

明日からも一週間、ボチボチ頑張りましょー(*^。^*)
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国民性的市場論

こんばんは。
甲子園終わっちゃいましたね。

結局近くに住んでいるのに1回しか見に行けませんでした。
大阪桐蔭、優勝おめでとうございます。
伝統校たるネームバリューもさながら、力以上に雰囲気で圧倒していましたね。
今年も高校球児からはたくさんのパワーをもらいました。
(※ちなみに、去年は僕の後輩たちが甲子園に出たので休みとって応援行きましたw OB席で応援しましたw
勝敗は秘密ですww)

高校球児って1つのプレーに対して莫大な量の練習時間を積み重ねてきてるんですね。
一つの内野安打にも、何万本の素振り、何千本のダッシュ。
それを考えるとワンプレーに対しても感慨深くなっちゃいます。

毎日のコツコツした努力。見る側としてもそれを感じ取れるとき、それが高校野球が感動を生む瞬間だと思います。


前置きはここらへんにして・・・
コツコツって言葉って日本人っぽいですよね。
マジメで勤勉で、勉強熱心。
行儀よくペコペコ。
集団行動能力に長けていて、偉い人の言葉を借りれば「和を以て貴しと為す」。

で、そんな日本人が作る社会。
今日はその社会の中の経済的分野に着目した、「市場」という枠組みで考えたいと思います。

まず、日本製の商品ってどんなイメージでしょうか?
丈夫。安全。高品質。こんなキーワードがパッと浮かぶと思います。
なんだかんだで、世界でも「made in japan」は未だ一定の評価を得られていると僕は思います。


何故そのように日本製商品が評価されてきたのか?
それはやはり日本人の国民性に起因する、というのが僕の仮説です。(実証って出来るんですかね)
最近はモノ作りに関してもオートメーション化は進んでいますが、根本的な部分はやはり手作業です。
職人技術です。職人技術ってのも個々のパフォーマンスが良いだけでなく、一人一人が与えられた役割をきちんと全うし、忠実に遂行する。小さなミスを見逃さず、一つの製品を完璧に仕上げる。
品質を担保するのは職人技術。職人技術を優れたものにするのは国民性だと僕は思います。


そもそも何故今日こんな記事を書こうと思ったのかというと、通勤時間のラッシュアワー、、
すれ違う小走りのサラリーマンを見て思ったんです。
「ここまで時間厳守が徹底されてる国ってあるのかな」って。

電車、バス、航空機。遅延率からしても世界最高水準のインフラを誇る日本。
それによっても分単位の時間管理を可能にする。
(逆に言うと定時出社を強制させられるんですがねw)


よく欧米人の仕事ぶりを耳にしますよね。
少し仕事したら喋って、お茶して、はたまた居眠り。
大体そんな話って美徳として語られることが多くないですか?
日本人は猛暑の中スーツ着て汗かいている中、涼しいカフェでサボるイタリア人、みたいな話(偏見でしたらすみませんw)

欧米人のラフな働きぶりを真似ろ、みたいなニュアンスで語られることは多いと思います。

ですが、、、
おそらく、になりますが時間にルーズで適当な人間が集まった国。
出社時刻に人が集まらず、会議も始まらない。
そんな国で高度経済成長なんて達成出来ていないと思います。
マジメにコツコツ。
給料以上の奉仕を会社にしてきた。(←否定的にとられやすい文ですが、ここではオーバーアチーブ、良い意味で使わせてください)
その国民性が今の日本市場を築きあげた、そう思います。
ドイツ人もそう。マジメで堅い国民性ですが、戦後奇跡の復興を遂げたじゃないですか。


これから、グローバル市場の中で日本市場は、そして日本製品はどうなっていくのか。
これからも日本人の国民性が昔のままである限り、MADE IN JAPAN は機能し続ける、言い過ぎかもしれませんがそう思います。

少し楽観的すぎかもしれませんが、
発展途上国が豊かになり、その結果、『(ネガティブな意味で使われる)ガラパゴス』の領域が10年後にはアジア圏を取り囲み、日本製商品がバカ売れすると予測していますw



マンションの横のカフェでくたびれたサラリーマン達を眺めていました。
でもこんな方のおかげで安全安心な消費社会・日本市場の中で生活出来るんだろうな。なんて考えてました。
僕もサラリーマンですが、毎日怒られてばかりですw
どうでも良い小さな事で怒られたりもしますが(←)、反省してほんの小さな点ほど気を使ってこまめに丁寧に対応していく。そうやって組織は回るんだろうな、と。
そうやって社会は形成されるんだろう、と。
「日本製」に付加価値をつける。大変ですね。



優れた市場は、優れた国民性が担保する。

以上!寝ます!

ソーシャル ・ プロダクト

カッコいい名前のタイトルにしてみましたw

ソーシャルってどんな響きですかね?
昔は直訳してただ単に「社会的」みたいな訳され方をしてきましたが、今は何か違いますよね。
もっと具体的な概念で、人の集まり・コミットメントみたいな使われ方もされているように思います。

ソーシャルビジネス、ソーシャルデザイン、ソーシャルゲーム、ソーシャルネットワーキングサービス、、、
また学問上でもソーシャルキャピタルったフレーズも聞いたりしますね。

ソーシャルって言葉自体、抽象的なんで抽象的な訳しかできないですが、
今は「利己的な観点」のみならず「社会全体の効用」からモノゴトを見ようとする見方そのものも
ソーシャル、ってフレーズで使われているように思います。


そしてタイトル名、ソーシャル・プロダクト。

直訳すれば「社会的な生産」みたいになるんですかね??
社会的な生産、社会にとって有用である生産物。
これについて今日は考えてみたいと思います。



まずは歴史、及び現状の把握。
日本という先進国を生きる中で僕たちは生きるのに必要最低限なモノは今ではいつでも手に入れることが出来ます。
「日本市場」が最低限の安心・安全を担保してくれる中で、僕たちは絶えず消費活動を行っています。

そして経済的に豊かになるにつれて、「消費活動」って定義も変貌してきたと思います。
戦後の「とにかくモノがあればいい」消費の仕方から、個々の生産物(消費対象物)に「質」を求めるようになってきました。

その結果、今重要視されるのはいかに「商品に付加価値をつけるか」というブランド力。
「モノ」自体じゃなく、企業のコンセプト、「モノ」を売るまでのサービスの内容、それらを包括するブランド力。

企業にとって、いかに自社の製品に付加価値をつけるか。
SNSなどを通じての「記号的な消費」に関しても着目されている今、「ただモノを作る」時代は終わったともいえると思います。
生産ー消費という一連の流れは、ハードな側面(モノ自体)からよりソフトな側面に重点を置かれるようになってきました。



そして、
長くなりましたが・・・
ソーシャル・プロダクト。
社会的に有用なソフトな付加価値。
一体それは何か?
たくさん回答はあると思いますが、僕はその中で「知」を選びます。

知識といった情報、断片的パーツだけじゃなく考えた方そのもの、学問的思考力。
以前の記事でもこれを僕は「一般教養」って名付けましたが、同時にこのブログタイトル「リベラルアーツ」そのものでもあります。


今社会を生きにくくしている弊害としてこの「知」の階層化が挙げられると思います。
他者と分かり合える社会、これを創っていくためには「知」そのものの拡散・共有が必要だと思います。


具体的に・・・
僕は、「本」に無限の可能性を感じています。

本?もうすでに広まってんじゃんwってなると思いますが、既存の発行スタイルを刷新するやり方。
付加価値を高める方法、幾らでもあると思います。

思いつくのは、「コメント書き込み型」
既存の本に読者が丁寧に自分の思うことを書きこんでいく。
「ここはこういう理由で間違っている」
「ここの断言は避けるべきだ」
「こういう意見もある」
「この部分いついてより詳しく述べている本は○○」
「この結論で筆者は締めくくっているが、更に深く考えて僕は○○になると思う」
など、賛成意見から反対意見まで、そして他の「知」の紹介など、
『筆者の考え方にとらわれない第三者の意見』をちりばめる。

それを記入・書き込みした上で他人にそれを提供する方法。


中古の本を僕はよく買います。
ページをめくっていると、よく線とか引いてあります。
それって意外と参考になったりするんですよね。

いつのまにか「筆者」だけじゃなく「以前読んだ人」とも繋がれる。

「筆者」と「読者」との二者間の対話っていう本の在り方を刷新する方法。
どうでしょうか。


著作権など様々な問題が生じてきますが、少なくとも社会にとっては有用だと思います。



そもそも何故こんな事考えてるのかって言うと、

ぶっちゃけ、高校生大学生とかって本読んでも、それが一体何を意味しているのかってよくわかんないと思うんですよね。
それが「極論」を述べているのか、至極真っ当な事を述べているのかさえ。

ちなみに僕は全くわかりませんでした!!(^_^;)


ステークホルダー(業界人)なだけに極論を押し付けようとする筆者、ゆえに悪本。
この類の本って増えてないですか?
ビジネスマンが書いた本ならば経済成長のみ!ってなるのがフツーです。
自分の名前を売りたいのなら「国家は○○年に破綻する!」ってタイトルにしたり、とりあえず国家とかマスコミとかを叩いていたらいいんだと思います。

ただそういう悪本を運悪く手に取って読んじゃって、それを信じちゃった若者が可哀想。

それが僕の一義的な感情、哀愁みたいなもんです。


学生時代の僕はある日を境に本を読みまくりました。
ただその本の内容はわかるけれども、「内容自体がその分野でどう捉えられているものなのか」、それについては
さっぱりわかりませんでした。
端的に言うと(思想的に)右?左?みたいな。
とにかくその分野の本を読みまくりました。

でももっと素早く「知」自体に興味を持たせる方法として、「コメント書き込み本」、どうでしょうか?

昔の僕が渇望していたものであり、
同時に「ソーシャル・プロダクト」としての機能も担保するもの
だと思いますが。


以上

お盆ですが明日も出勤です。
寝ますzzz

「読書メーター」ってサイトを使って、ここに読んだ本を記録したり感想書いたりしてるので
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おやすみなさい(*^。^*)
明日、金曜も頑張りましょうっ

各論 【雇用論】

元々欧米ではよく使われる指標ですよね、失業率。
この事業によって、或いはこの会社によって何人の従業員が雇用されている、というような使われ方をしています。
最近になって日本でも段々見かけるようになった気がします。

今日はそんな「雇用」論に関して考察を行いたいと思います。

完全雇用。
それは経済学上目指す最優先課題であり、主要な理論もこの完全雇用を達成するように構築されてきました。
またそれとは逆に、完全雇用を前提としても様々な理論が考えられてきました。
あくまで学問上の理論の話です。
先に述べた「失業率」、この指標は欧米では政権が変わるたびに着目されたりしていて、政策判断の際にも基準となっているものです。


いかに完全雇用を達成するか。
皆が働いて食っていけるような環境を作るか。
この難題はずっと考えられてきました。


で、ここから思うんですが、
経済学上の「完全雇用」は社会単位でも1番優れた状態であり、達成されるべき状態ではあるけど、
他の観点からみればどうでしょう?


例えば社会学。
「働く」ってこと自体の意義を問われているのが現代だと思うんです。
「量」については経済学がカバーするとして、その「質」について考えたいと思います。

歴史を振り返りましょう。
勤勉な日本人は戦後、働き続けました。
サラリーマン、それは日本の復興を支えた大人の「像」でもありました。
そこからある程度豊かさを手に入れて、「虚無感」が蔓延してきます。
その結果生まれたのがポジティブな意味での「フリーター」。
スーツを着るのはヤダ、組織に属することなく好きなことしながら人生を歩みたい、という新たなクラスタの誕生です。
その結果、政策の影響もあり「格差」が生まれてきた。
階層化。正規と非正規。←今ココじゃないですかね。

もう今単純に働くといっても、その働くって言葉の定義を「お金を得るために何かをする」って意味で使うと
非常に多様な手段が存在します。
昔のような「投資」=「工場作る」時代は終わったのです。

どんな仕事をしても働くって意味では変わらない、ただ今はその働く「質」「内容」でその働いている人間、本人が判断される時代だと思うんです。
簡単に言うと「肩書き」による「階層化」。

そこから嫉妬・妬み・憐みが生まれる、僕はそう思います。
何故うまれるのか?
それはそのような気持ちを抱いている本人が妬みの対象となっているモノへのアプローチの仕方を知らないから、或いは知っていても社会がそのアプローチを許さないように設定されているから、ではないでしょうか。
(ここら辺は以前の記事とリンクしています)


格差が格差を生む、とはこのことです。
端的に言うと子供が生まれてきたその家庭の状態で子供の人生も絞られてくる、そう思います。
高学歴の両親を持つ子供はどんな職業に就くでしょうか。
母子家庭で育った子供は、逆にどうでしょうか。
これは偏見でも何でもなく統計学的にも明らかですよね。

子供は生まれてきて学生生活を終え社会に出ますが、その方向性自体もある程度「定められている」。
運命、とまでは言いませんがそんな仮説は立てられると思います。

それに対し現代声高に叫ばれている「自己責任」論。
自分で選んだ結果だろ、責任取るのは自分だ。

この安易な発想は非常に危険だと思います。

明らかに相対立する意見ですよね、「運命」論 VS 「自己責任」論。

で、結論なんですけど、結局僕は選択自体妥協を意味するものだと思うんです。
いかに大人になるまでに、社会に出る前に「選択≒妥協」をしてきたか。

選ぶ機会があった、と自負できでるような環境を作れるか。
ワンフレーズでいうと「機会平等」を保障せよ、ってなっちゃうんですかね。

どれだけの選択肢があり、そのたびにどれだけ妥協してきて僕はこんな大人になった。

それをちゃんと自分で認められる人って、第三者に対し嫉妬、妬みとか持たないんじゃないですかね。
個々の選択権を担保する。
ほんの少し生きやすい世の中になるんじゃないかと。



サラリーマンは朝早いからもう寝なきゃいけないんですよ、、、。
いいよね、自分でやってる人とか気ままなフリーターは。
って皮肉でも何でもなく本心を述べた所で寝るとします。

僕もサラリーマンには選んでなったという自覚はありますので・・・。

zzz

虚無感と「物語」論

今日の考察はずっと前の記事
からスタートします。


ずっと日本社会には「物語」がありました。
戦後復興、欧米文化への憧れ、経済成長・・・。

それを終え僕たちは少なからず(無意識に)「虚無感」を感じている、
逆説的なフレーズになっちゃいましたが僕はそう思います。

何のために生き、何をもって人生と為すのか。
哲学分野にも踏み込んだ考察になっちゃってるかもしれませんが、
僕たちはそれを絶えず模索しています。

『人生ってこんなもん』
こんなもんってのが、僕が言う「物語」です。

こんなもんってのが無くなってしまった。
あるべきサラリーマン像が消滅してしまった。

その流れの中で一度はポジティブに捉えられた「フリーター」って言葉も今は
どちらかというと「非正規」の意味合いでネガティブに捉えられる。



「物語」ってのはずっと社会の根底を支える、受容されるべき価値観だっと僕は思います。
それが共同体を作りやすくした。
会社。
家族。

これが日本の伝統的な文化だったんだと思います。
それを一億総中流社会だといわれようと。

しかし、今現在、会社・家族制度は崩壊しつつある、
少なくとも方向性としては崩壊へ進んでいる、と思います。
人々の無意識の「共同体の一員としての自覚」を担保していたもの、それが無くなりました。




って非常に長い前置きを述べた上で。
じゃぁ新たな「共同体」としての役割を果たすのは何か?ってことですね。

共同体として一番大きな単位であるのが「国家」。
政府も提示されるべき政策・制度もその問いとどう向き合うか、という点を考慮しなければならない。
極端かもしれませんが僕はそう思います。

この意味での人を「繋ぐ」「繋げる」。
これからの時代は非常に重要になってくるキーワードになると思います。

人的資本の脱階層化。
嫉妬、妬み、偏見、憐み、、、

人を肩書きで判断するのも良くないと思います(誰?
アナリストとかコンサルタントとか、「年収高そうな肩書き」に魅了されちゃってるばかりではしんどいですよね。


「皆苦労して生きているんだから、人ぞれぞれあるんだから、とりあえず落ち着いてお茶でもしようや」
みたいな事を言えるオジサンになりたいですね。

タイ的共同体論

http://yoriblog0429.blog.fc2.com/blog-entry-98.html
以前の記事の続きです。
バンコク旅行記。

今回はタイの「家族論・共同体論」について考察したいと思います。

最近の記事見返して文章がグダグダしちゃってる傾向があるのに気付きましたw
よって結論。
(以前の記事にも少し書きましたが)
「共同体」としての「家族」が非常に原始的であり、繋がり関わりが深く、それと同時に「友人・知人」とのコミュニティも非常に硬い絆で結ばれている。

つまり、何よりも家族・友達を優先させるのがタイ人なんだと思います。

こういうのにあこがれちゃうんですよねー。
でも、手に入れたお金を友人家族に「ばら撒く」。
こういうのって『合理的な選択』になるんでしょうか。

僕は、今のこの社会の閉塞感はこの『合理的選択』を強いられている所から始まっていると思います。
何度も書いていますが、すみませんw
強いられている、んですね。


↑この仮説については徐々に確信に近くなりつつあります。
結局人に裁量ってモノはありません。

多数の考えが少数の考えを丸め込み、後世にそれを制度として伝達していくって仕組み。

結局何が合理的なのかわからない。
そもそも合理的でなければいけないのか?

って論点を僕はずっと最近考えています。
人間らしい≒非合理的。
そんなことを言うんじゃないでしょうか。

自分の身を削って人の為に生活する。
支え合い。
共同体。

タイの素晴らしく原始的な生活を少しだけ感じることが出来ました。

【まとめ】
今の僕たちの生活を担保するのは何かしらの「共同体」であり、
しかしその根底にある家族という名の「共同体」が脆く崩れている、
そう僕は感じます。

社会構成員の多数が「孤立して生きること」に合理性を見出し、
それに多数が同意署名した結果、
そんな社会が出来上がってしまった。
そんな言い方が出来るのではないでしょうか。。。

この「繋がり」論。
もっと考えていきたいと思っています。
今日もお疲れ様でした、
おやすみなさい^^v
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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