学問の「有効性」

学問チックな記事を書こうと思います。
鳥貴族でほろ酔いした土曜の晩です笑



タイトルの名前からして、言葉としてフレーズとして使うには間違っていると僕は思うんです。
「有効性」。費用対効果。
そんな言葉がそもそも「学問」って分野には似合わないと思うんです。

そもそも、「知」とは計測不可能で、自分にとって有効的かどうかわからないような、あやふやなもの、考え方そのものだと思うんです。


以前の記事でも何度か書きましたが、経済的意味での市場で活動するうえで絶えず僕たちは価値を計られる続けます。
その計られる価値とは肩書きとか、市場価値として計測可能な実務的資格の取得などです。

あんまりこういう言い方したくないのですが、わかりやすく言えば学問自体は「考え方」そのもの、計測(測量)可能な実務的肩書き自体は「知識」に該当すると思うんです。

何故こういう言い方をしたくないか。
簡単にスキーム化出来るような問題ではないと僕は思うからです。

以前の記事(クリック★)でも書きましたが、客観的に「わかりやすい」区別の仕方、問題の解決方法程内在する諸問題を抽象化の過程で切り捨てたものなのですから・・・。

閑話休題。
そもそも個人の「思考」、「考え方」自体は計測不可能である。
市場で「価値」として測定されるべきものではない。

そもそも僕はこの学問に関わる思考そのもの、それを「一般教養」と再定義しています。
周囲の環境から自分の意思を決定付けられ思考を構築する過程そのものです。



なんかグダグダしちゃってますね><
端的に言いたいこと・・・。
学問という個人の「考え方」そのもの。
それは価値付けるにあたっては不可能なもの。
「個人」にとっても、それが自己の為になるか判定不可能なもの。
従って「有効的」かどうかわからないもの。
そんなものだと思うんです。


現在、大学進学でも人気な学部は「経営学」とか、どちらかというと知識そのものが重視される実務的な学問になっています。
それを僕は危惧しています。

自分にとって「カネ」になるかわからない。
しかし少なくとも社会のためにはなる。

与することが出来る。
そんなコストパフォーマンスという一言で片づけることの出来ないモノ。

そんなモノを社会は求めているんじゃないですかね・・・。
自分のためになるかどうかは分からないが誰かのためになることであろう部分を相手に与え続けることの出来る人が作る社会。


理想論ですかね、でも資本主義か高度化するにつれて個々のパフォーマンスとしてはそれを目指し続けることしか方向性はないと思います。

個々個人にそのような方向性を目指すことを強制するのは無理です、
でもそのような方向性を向くような個人を作る制度を創る、って言ったらいいんですかね、それを目指すのは少なくとも可能です。


個人重視ではなく前提に社会。

そんなフレームワークを思考の前提として備えた個人を、人格を形成するような制度。

そんな社会を創る事を僕は目指します。



スポンサーサイト

問題の「根本的」な解決方法

すっきりするタイトルですね^^
ある問題に対し綺麗にモノゴトが片付くような根本的な解決方法、スッキリです!

ただ僕は安易な「根本的」という言葉の使用を嫌います。
そういうフレーズを使うときって「私はモノゴトが分かっている。その原因はこうなのだ」ってスタンスで使う場合が多いと思うんですね。

そもそも「わかる」って響きがズルいですねw
モノゴトをわかるとはどういうことなのか?
本質ってのはどこにあるのか?

勿論そのようなラディカルな部分が明確に「わかる」場合もあると思います。
問題が個人に起因する場合ですとか、システム自体が崩壊しているときですとか。


ただ、僕が言いたいのは社会の諸問題・複雑な利害関係のもと形成されている「問題」に対し根本的に解決可能な解を見つける、って作業自体非常に困難だと思うんです。
よく学者・コメンテーターも言いますね。
「現在の社会の問題はここにある」
こんなフレーズを僕は嫌悪します。

そんなんじゃないんです、簡単に一言で明確に片づけられるような問題なら「社会的」問題までに発展せず個人的な領域で対処可能なんだと思うんです。


人は様々な環境で様々な外部的刺激を受けながら人格形成させられている
以前の記事参照です><


社会が作った人に対し社会で作られた人格が攻撃する。
いとをかし、ですよねw

個人が抱える問題を内包する組織を内包する社会。
結局ステークホルダーってそういう意味合いで使われるべきだと思うんです。

色んな事情を抱え込みながら生きている人が、生活している人がいるんだねっ、
色んな人の事情を考慮しながら思いやりを持ちながら生きようよ。

そういうスタンスで考えると安易な「根本的」という単語は使いにくいと思うんです。


複雑な問題ほど解決って言葉よりも妥協って単語の方を当てはめるべきだ、僕はそう思います。
そういうもんだと思います。

1年以上前の記事(クリック★)でも書いていますが、相手方・第三者の意向・論理を汲み取り自己の社会性を意識する、そんなことが個人として出来ればな、と思います。
それを僕は一般教養って呼んでいるんです。

『合理的』な考え方

合理的って言葉ってずるい気がします。
良い意味で使われ、決して否定する場面では語られない言葉です。

「合理的」・・・1 道理や論理にかなっているさま。「―な自然界の法則」
2 むだなく能率的であるさま。「―な処置」

客観的に見て筋道が通っている意思決定。
その一連の手続きの事を合理的と呼ぶのでしょう。

ただ僕は疑問は投げかけたいです。

全ての場面で合理的な意思決定ってのがいい結果を導くのでしょうか?
そもそも理にかなっているとは?
そもそもそれらの根底にある理・ことわりって何でしょうか?

結局そのことわりって部分も主観的な部分の結合って意味でしかないと僕は思うのです。


合理性が全てを支配する世の中。
僕はそれを危惧します。
まるで機械な。自分にとって最善の解を導き淡々と行動するようなさま。

人間らしく生きるって、変な言い方すれば遠回りしながら訳のわからないことをしながら進んでいくことになるんじゃないでしょうか?
人の非合理的な行動に対し時に僕たちはそれを面白おかしく笑います、いい意味で。

大体お笑い芸人の滑らない話もそんな非合理的な行動を面白く加工したものなんじゃないでしょうか。
何故か人はそこに人間味を感じます。

明日朝早くから重要な会議がある。
合理的に考えれば早く寝て明日に備えるべきだ。
ここで合理的って言葉を支配することわりって部分は「明日の会議を成功させる」ってモノだと思います。

そんなもん失敗してもえぇやん、今から飲みに行って麻雀やw
そんなバカみたいな、非合理的な意思決定こそ楽しく感じれる瞬間なんじゃないですかね。

自分で言っておいてそんなことやろうとは思いませんがw

元々「立派に合理的に生きる」って変な言葉だと思うんです。

ムダな時間の使い方、金の使い方、一体どんなムダをしてきたのか。
そんな部分で非合理さ・人間らしさってのがはかられてもいいんじゃないですかね。

「近代合理主義」って言葉はカッコいいです。
勿論最低限合理的に考える能力も備えるべきです。

ただ過剰に、「モノゴトに理由を求めるスタンス」、これは良い結果をもたらさないと思います。
個人にとっても、社会にとっても。


無意識に使っているこの言葉。
或いは意思決定する際の基準と設定されているこの言葉。


完璧に「善」と捉えられて使われているような気がしたので、軽く考察してみました、
正直自分でもよくわかりませんww

人生で何が正しいのか、的な哲学チックな分野に軽く足踏み入れてるのかもしれませんが、
あま理深く考えすぎるとおやすみモードの脳になっちゃったのに寝れなくなるのでここまでにします。
おやすみなさい

人と制度の歴史


なんか学問っぽい、よく考察された理論を披露する、みたいなタイトルになってしまいましたw
そんな理論ありませんw
ただ幾らか自分の頭で考え抜いた仮説はあります。
(ここでは仮説を理論構成要素とみなすことにしましょう、つまり僕はまだ未熟段階です)

社会・制度が人を作る

これは僕が以前から述べていた仮説部分に該当すると思います。


今日はここからの考察。
制度によって作られた人が、生み出す新たな制度は、一体どのような位置づけにすべきなのか?

これは根本的には人が先か?或いはその周囲の制度が先か?みたいな
ひよこと卵みたいな話になっちゃうと思います。


ややこしくなっちゃうかもですが、
人は生まれてきて周りの環境によって育てられ、
例えば民主主義というプロセスを通して新たな制度を作るように決定付けられます。
それが歴史の変革だと思うんですが。

人が人を支配するっていうのは、結局こんな仕組みを理解し使えるようになることが条件だと思うんです。


ただ気になるのは、この過程の中で、歴史の変革の中で、人間は「進歩」しているのか?
ってことですね。
そもそも進歩って言葉を人間にあてはめる自体おかしいのかもしれませんが、
上記のいわゆる「後世への社会制度おしつけあい合戦」の過程で元々の人間像から人は変わって
いかざるを得ないと思います。

その変化は正しいのか?
これも正しいって言葉は適切ではないかもしれませんが、
ここら辺は非常に哲学的な問題ですので省略ですw



以降僕の日本(人)に対する仮説です。


元々島国に住んでいたこともあり、人と人との関係が明文化された法律等で決まっている、いわゆる「社会」の中で生きているのではなく、
人と人とのface to faceの対話を基とした「空気」や「暗黙の了解」が重要になってくる「世間」の中で生きてきた。
「世間」をうまく生きる上では他人との関係はうまく築きあげなければならない。
他人との関係を構築することが特に重要視された。

その中で近代化を迎えた。
欧米から思想を輸入し、モノゴトを合理的に、効率的に考えることをさせられた。

行為は全て「価値」に還元され、市場の中でそれが「等価交換」を原則のもと取引・売買される。
その中では人は消費者と生産者に区別され、演じることを強要させられる。

資本主義ゲームが高度化する上で人はプレーヤーとして合理的に行動することを学ばされていった。
それは孤立的に、利己的に行動することも意味する。

各個人が自分のことのみを考え、行動するようになった結果非常に生きにくい社会が出来上がってしまった。

以上。



(ここから雑感。)

そもそも、資本主義ゲームのプレイヤーはそれである以前に社会を構成する人の集まりの一部である。
金儲けとか、会社のため、とかそういうのもいいけど社会のためにはって部分を強く意識しないといけないんじゃないですかね。。。

改めて制度作り。
皆が皆のことを考えて過ごせるような社会ってどういうのか考えるのが必要な時代なんじゃないですかね。



そして僕のこの気持ちを広めるにはどうしたらいいんですかね・・・・・・・・・・・・・

机上の考え

こうやって定期的にブログ更新して自分の考えを言葉で表しているところですが・・・。

結局これって机上の空論、というか考えになっちゃうんですよね。

このブログ自体は僕の思考・考えの整理って意味合いもあるので誰も見てくれていなくても構わない。
ただ、そんな考えをフィードバックすることが「机上」の段階では無理ですよね・・・。

ネット空間内での行動に限界を感じてきたってことかな。

このままダラダラブログ定期更新は一番嫌です。
よって作戦
①HPを早く作る!→新しい環境で亜新しいネット空間での僕を構築
②更新頻度をメチャクチャタタカ高める→とにかく毎日強制的にアウトプット。量で凌駕しようって作戦
③リアルな世界での行動→この3つでは③のこれかなって考えてる所です。

ある程度僕の考え(自分でも何考えてるのかよくわかりませんが)を整理したうえで人にface to face で伝える、フィードバックを受ける。
この流れが手っ取り早いのかなぁと。

狭い世界に縮こまってちまちまブログ更新ってのにも嫌気がさしてきたところです。

広く広く世界を見てたくさんの人と触れ合いたいって気持ちは強くあります。
インスパイアされたいっていうんですかね。

ただその前に自分の考えは整理しておく必要があります。




そもそも自分は何がしたいのか?
名誉?富?はたまた権力??
そんなじゃないですよね~。

社会の中で生きてるって実感が欲しいんですかね。
色んな人に僕の意見を伝えて、
社会の質の向上ってものに寄与できれば、と。

絶対的利他主義って言い分みたいですけど、
僕がしたいことはそんなことだと思います。

生きやすい社会ってどんなのだろう?
それを考えることは、まわりまわって自分の周りの環境もよくなるんじゃないかな、と。


もっとたくさん本読んで、たくさん人と逢って、精進していかなきゃなぁって思いました、理由もなく。

大変だけど、今やらなきゃ堕落した人生過ごすことになりそうですしね><

プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウント^^
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR