「贈与」の本質

経済合理性から述べると、「贈与」って行動は意味不明です。
自分の所有しているモノを無償で他人にあげる。
無償ということで、勿論見返りも求めず、です。

でも経済活動って、もともと贈与っていう行動から始まったんです。
遡って狩猟時代、川で捕れた魚を隣人にあげる。
物々交換から貨幣ってツールが生まれる。

貨幣という媒介を経由して、市場で取引するのは等価交換です。

差し出した貨幣価値以上のものは手に入れることは出来ませんし、それは市場取引上当たり前です。

ただ、これからそういう「贈与」っていう市場の外での人の非合理的な側面、純粋な思いやりってもので社会の質ってものが決まってくると僕は思います。


今、TwitterなどのSNSでは、自分の口座番号をさらけ出し、お金振り込んでくださいって発信している人もいますし、そういう人を集めて一斉に情報発信している人もいるのです。

あなたは見ず知らずの第三者の口座にお金を振り込みますか?

僕は今ちょうど転勤で引っ越し時期なのでお金がなく、振り込みません(笑)


でも返報性・見返りを求めない贈与ってあるんですね、いつの時代にも。

これからの時代、何故「贈与」に意義が出てくるか。

それは直接の、人と人との関わりだからです。
人は基本的に市場を通しての売買を行いますが、贈与は違います。

市場では売る人は利益を出すため高く売り、買う人は出来るだけ安く買おうとします。
そこに「心」はあるでしょうか。
値引きセールってのも還元すればマーケティングの一環です。

市場でのプレーヤーとしての「人間像」は機械みたいなものだと思います。

機械同士のやり取りでは「繋がり」は生みません。


「繋がり」、これが人間らしく生きるための十分条件だと思うのです。

ゆえに経済合理性上却下されるべき「贈与」って概念が人が生きる・人を繋げる社会の中では非常に合理的になるのです。

本来の意味での「贈与」って、モノを与えた人に、ほかの何かを返させる気にさせるのではなく、
モノを与えた人に、贈与って意味を教えるものだと思います。

A⇔Bではなく、
A⇒B⇒C⇒D というように贈与は循環するんです。


まとめ
『市場の規模がかつてなく大きくなり、もはや日本国内では欲しいものは何でも金で手に入れることが可能になった。
だからこそ市場の内部でしか生活できない人が出てくる。いわばそれは機械だ。
そんなの人間らしくないよ。
元々人って意外と非合理的な動物なんだ。
経済活動だけじゃない。
文化的・理性的な生活を送るのには市場の外での生活も必要なんだ・・・。』

以上、仮設です。

僕も、本好きの知人に本をあげたことは何度かあるんですが非常に気持ちいいんですね。
そういうモンだと思います。


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自由

人って自由なんですかね・・・

いきなり何言ってんだって言われるかもしれませんが、最近考えているテーマは自由についてです。

シンガポール旅行記でも自由って言葉は出てきました。(⇒クリック!



日本には選択の自由が保障されている、と。

そもそも人間はどこまで自由なんでしょうか?

この問いには、『社会が人をつくる』って以前の記事から出発してみたいと思います。

根本的に人間は受け身である。
裁量権も少ない。
っていった切り口でした。


裁量権は少ない。
人格は社会の外部構造によって形成されている。

これは本質的に自由とは言えないんじゃないですか?

少なくとも個人の自己形成過程において環境により決定付けられるならば、自由とはいえません。

「いかに自分が制約ある環境の中で生きているか」
「そしてその制約はどこにあるか」

この2点について強く意識していないとそれこそ環境に飲み込まれそうです。

でももし本当に人間が完璧に環境によって意思決定が決定付けられるならば、それこそ科学の出番だと思います。


どのような環境で、どのような社会制度の中で育つとどのような人格形成に至るか。
これはインプットとアウトプットの検証、それに他なりません。

しかしそのような機械的な認識は成功してないように見えます。
そこに非合理さ、人間らしさがあるのではないでしょうか?


そしてここで言いたいのは、『仕組み作り』です。
人は放っておいたら楽をする動物だと思います。

しかし資本主義の中でやっていくためには常に考えることも強制されます。

いかに生活の中にそのような仕組みを作るか。
自己投資出来る環境を作るか。

レッシング氏のアーキテクチャ論ではないですが、こういった自ら環境へ制約をかけることは非常に大切だと思います。

いつするか?
今でしょ!(死語?w)

それなら今出来る仕組みを考える。

僕も朝布団をたたむ癖をつけたら帰宅後、勉強机に座る癖が付きました。




人間は元来支配されている。

だからこそそれに抗い、自ら環境を支配する。

逆説的ですが、非常に重要だと思います。


以上、最近考えている仮説でした。

トレードオフ⇒妥協

一生は限らている。
ゆえに時間は有限である。
ゆえに選択対象がトレードオフになる。
ゆえに妥協が必要になってくる。

結局人生妥協の連続だと思います。
(と四捨五入してやっと30歳の小僧が申しております)

ただ妥協できるという選択肢がある。

第2、第3の人生を送ることが出来る。

それが可能なのも、裕福な国、日本だからではないだろうか?って思いました。



金銭的収入を妥協する変わりに、自分の時間を手に入れることが出来る。
逆に、四六時中働いて、遊ぶ時間はないがそれ相応の収入を手にすることもできる。

ワークライフバランスとかも叫ばれて久しいですが、結局決めるのは個人です。
国の方針も、そのような「選択の自由を拡げよう」ってものだと思います。



僕は考えてます。
何故生きにくいのか。
それは所属する組織、環境によって負け組などのレッテルを貼られるから、っていうのも一因です。

個人ではなく、組織の誰って認識される。


個人の自由って考え方の延長には、分かち合いというか、誰しも妥協を受け入れられるような社会があると思います。
自分に対立する組織への批判は非生産的です。


時間は有限。貴重です。
分かち合いまではいきませんが、「そっちはそっちで楽しそうじゃん、俺はこっちで楽しんでる」的な
距離を置いた「放任」って考え方も、批判するよりかはましなんではないでしょうか。


人生楽しんだもん勝ちとはよくいいますが、楽しめる環境を作るのは自分です。
批判ばかりしていてはそんな環境は作れません。

色んな人がいるし、色んなことが起こります。

ただ、周りに自分を楽しめる環境を作ることが出来るという環境こそ、大事にしたいものです。

その点だけは、妥協しません。
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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