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排除 と 承認

最近気づいたのですが、朝日新聞の「天声人語」。
最初の一行を読んだだけで、そのコラム全体を通しての言いたいことを想起できる人が、本当に頭がいい人だと気付きました。
以上、最近気づいたことでした、唐突にすみませんでした。


ちょうど5年ほど前ですが、こんな記事をかいています。(クリック)

あまり記憶がないですが、いつも泥酔しながら稚拙な文章を書いているところ、結構真面目に考えて書いているようですw

この過去の記事の紹介で、これだけで何が言いたいか分かった人は頭が良い人だと思いますが、
今日のテーマは京アニ放火の事件などについてです。
平成以降最悪の放火殺人事件と言われています。

これに関連し、川崎で起きた、通り魔殺傷事件が起きたのはわずか2か月前です。

一人の犯人が、罪のない犠牲者を複数殺害した、という事件で共通しています。

両者も被害が大きいだけでなく、たった一人の犯行であり、さらに特定の者に対し行われた犯行ではなく、
ある意味で無差別テロです。

ヤフーのコメント欄にも、多数の書き込みがあります。
一番多いのは、「犯人が許せない」というもの。
「ぜひ犯人には厳罰を!」

確かに感情としてはその通りです。
ただ、僕は不思議です。
「なんでこんなに他人事なんだろう」



まるで犯人が”突然変異”して生まれたかのような言いっぷりで、皆でたった一人の犯人に感情をぶつけあって、
それが「正義である」という空気が蔓延している。

皆で、必死に自分たちとは異次元にいる異物を排除しようとしている。


他人事で終わらすことができるのでしょうか。

極端に言うと、加害者である犯人を排除したのは社会であり、それが意味することは、間接的であろうと社会を構成する私たちが
排除したにほかならない。
そう考えます。


最初に紹介した昔の記事を引用します。

”元々「社会から外れた人」たちがいて、それを僕たちが認識するのではなく、
僕たちが認識するゆえに「社会から外れた人」たちが生まれていく。”
”人から認識されることでその枠組みが出来上がり、及びそこに属していると捉えられている人間が自らをそうカテゴライズする上でそのような階層が出来てしまった”


「社会からその関係を断ち切られた」
人がそう考えるとき、自分は排除されたのだとその段階で自覚します。
結果として誰かの救いがなければ、その自覚は嫉妬、妬み、恨み、怒りに変わっていき、いつしか社会に対する不満として、
限界を超えます。

その際の怒りの対象は、特定の誰かではない。
自分を排除した社会そのものです。

事後的に言及できるとすれば「モンスター」の誕生の瞬間です。



僕は、勧善懲悪という言葉が嫌いです。
悪が在りきのこの言葉。
悪を生んだのは何だろうって話。


人を排除するのは、簡単です。
例えば会社でもいきなり何をしてくるかわからない人、考えていることがわかならない人がいれば、距離をあけたくなります。

小さい頃から言われますよね。
危ない人には近づくな。
これはその通りです。


僕が言いたいのは、危ないから排除されるわけではなく、「あいつは危ない」が本人を含め周囲の人たちが認識し、それが共通の理解となって「あいつ」を締め出す。「社会から外れた人」たちが生まれていく。排除される。

排除されるというのは、客観的に計測可能な物理的なものではなく、この本質は”本人の主観”にあると思います。
一つの誰かからの承認。それが排除を阻止する。


今回の事件に限らず、犯罪を犯すことは咎められるべきでしょうが、今のヤフーコメント欄のように、
脊髄反射で加害者攻撃をするのは、よりこの排除を促すだけではないでしょうか。



少なくとも僕は、僕たちが構成している社会の中で起きた事件は、単純に他人事とみなすことはできません。
「犯人には厳罰を!」のような発言は、僕にはできません。




ネットを介して人の意見が可視化できる現代では、世論はあっという間に強い力を持ちます。
と同時に、排除を容易に肯定する、そんな社会では、間違いなく、また同じような事件が発生すると思います。


排除を阻止するたった一つの誰かの承認が、非常に貴重になってきました。

経済格差は拡大する一方で、核家族も増加しています。
構造的に”排除されやすい”社会になってきている。
だからこそ人と人とを繋ぎとめる承認という行為に、今まで以上に価値を見出すべきです。

元号が令和になってから、社会的にも大きな影響を与えた悲惨な事件が、早くも2つ起きました。
そして、上記の理由から、何も対策をとらなければ、このような事件は続けて発生する可能性は、低くないように思います。



こんなに僕が必死に考えるのも、ある意味、自己保身のためでもあります。
なぜなら、無差別で人に危害を加えるモンスターが自分の家族・友人に手を出す可能性は、0でないから。
家族の身に何かあることは、何があっても避けたい。だから必死に考えるんです。


そして、こう思います。
そうやって他人事で考えているけど、いつ自分の身に降りかかってくるかわからないよ?って。

みんなが生きやすい社会にするには、みんなで作っていきたいね、と。

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なんか、本気の自分をみせるのって、恥ずかしいですよね。

スマートに、クールに生きたいですよね。
何事も巧みにこなせる。
なんでも、ある程度できて、それを難なくなやってみせる。

まるでアニメの主人公のような、そんな生き方は、かっこいいですよね。

たくさんの人たちがそのような”スーパーマン”にあこがれているからこそ、
僕は逆に必死で物事に取り組んでいる人に対して凄い尊敬します。


あからさまに必死で一生懸命で、がむしゃらで全然クールじゃなく、
だけど芯の入った強い人。

そういう人に対して、素直にかっこいいと思います。


誰しも成長する過程で怒られたり失敗してきているわけです。
誰も、失敗なく何でもできるようにはなりません。

でも、なぜかあたかも”最初からなんでもできるようだった人”が称賛されるというか、憧れられて、
泥にまみれて成長した人より良く見られがちじゃないでしょうか。

でも一方で、
昔書いた記事 でも
”のぞきみ社会” って言ったように、人の魂こめた思い、気持ちってのを眺めたがるのはこれまた日本の国民性のような気がします。


「あ、やってるやってる。」
って感じの気持ちで、人の本気に触れるのが居心地良い。

決して自分の内面はさらけ出さずに、巧みにこなしながら、せっせと”のぞき見る”。


確かに人の努力は見ていて感動しますよね。

こんなことやっているんだ、こんなこと考えているんだ、
次は何するんだろうって。


でもある意味”のぞき見る”ってのは、評価されるのが怖くてそれから逃げているのではないでしょうか。

「他人を評価する」ってのは、とっても気持ちがいいです。

社会の中であなたはどんなことをしていて、素晴らしいことをしているね。
だけどその考えは少し違和感あるよなぁ。

とか。

だけど、評価されるのはとても苦痛です。

というより、ほめられるのは誰しもうれしくて、評価の背後にある非難が怖いのだと思います。

非難からの逃避。
とても合理的です。

非難されたくなかったらされるような事をしなければいい。
SNSでも何も発信しなくていい。
社会人としてあるいはフリーターとして最低限のことされやってれば非難はされない。




つまり、僕が特定の人をかっこいいと思うのは、非難を恐れず、魂込めて自分の目標を目指すその姿勢、その生きざまに対してでしょう。
普通だったら誰からも非難されないところ、みずから発信していくその姿勢。


僕は、このブログに自分の魂をこめているつもりです。

逆にいうと、この場所がなくなれば、僕はもぬけの殻になるでしょう。
それくらいの場所です。


ずっと昔に抱いた”やってやる”っていう気持ち。

初志貫徹、ではないですがその気持ち・想いを忘れずに、日々モチベーションを持続して、毎日を過ごせればと思います。


”仕組み”を知る

情報化社会といわれる現代。

僕たちは日々たえず多様な情報に接し、取捨選択を行い、思考をしています。



昨日、いつもの銭湯の露天風呂で、久しぶりに明るい空を見ました。
というのも、仕事が終わってからいくともう真っ暗で、空は暗くなっていたからです。

久しぶりに明るい空を見て、
「そういえば、5年くらい前も、同じ景色みてたんだっけなー」
なんて考えちゃいました。

そう、同じ場所で、ずっと昔、同じ景色を見ていました。

あの頃の僕は、社会人になった直後で、これからの社会人生活に目を輝かせ(!?)、
わくわくしながら生活していたような記憶があります。

あれから月日がたち、同じ景色をみている。
僕は、成長できたのか。
何が変わったのか。
なんて考えたのです。


そして考え抜いたのは、この情報化社会で、情報は生まれては死にを繰り返すばかりで、大事なのは接し方である。
その情報をどう扱うか。
その情報は何を意味しているか。
それを理解しないと、まったく意味がない、ということです。

例えば単なる知識は、役に立ちません。
探せば出てくるし、すぐにその情報はアップデートされ古くなる。

東証一部上場企業を覚えたって、何の役にもたちません。

大事なのは、情報の扱い方であり、表題のとおり「仕組みを知る」ことにあると思います。


要は、Aという情報に接し、それならBに影響がありよってCがDになる。
のような論理的な流れを理解する、その能力が強く問われると思います。


結局のところ、”創造”ってのも新しく0から1を創るというよりかは、既存の1たちを絡みあわせて10を創るような作業にあると思います。



会社は組織であるし、意思決定にも過程があります。
こうなればどうなるのか。
その事実はその会社にどのような影響を与えて、誰がどう判断してどういう決断をくだすのか。くだすはず、なのか。


その”はず”って部分がとっても重要で、これを積み重ねていくのが、これからの社会を生き抜いていくためのキーになると思います。

法律が改正せれた。
どの部分がどう改正された。
だからどうした?

どの職種の企業たちがどのような行動をとる”はず”なのか。
その結果社会経済にどのような影響をあたえる”はず”なのか。

仕組みを理解するものは、情報に溺れません。


仕組みを理解していれば「違和感」を感じることがあります。
これはオカシイ。
こんなことは論理的にある”はず”がない。


分かりやすくいうと、朝職場へ言って、同僚の車があったのに、席に見当たらない。
パソコンも閉じたまま。ずっと不在。
オカシイ。特に予定も入っていなかったのに、こんな”はず”はない。

そう、普通、出勤すれば、どこでどのような作業をしているか。
その仕組みを知っているからこそ、違和感を感じるのです。


アンテナを張る前に、まずはその 普通 を理解する。
そこから始まります。


この意味で、色んな職種を経験して、色んな環境で仕事をするほうが、多様な”仕組み”を知ることができるので、
これからは特に需要があると思いました。




ヤフーニュース が 社会を変える


昔書いた記事ではこんなことを言いました。

”気になるニュースを目にする→自分の意見を仮定する→他人の意見を見る→自分の意見が確立される
自分の意見が固まるまで、わずか30秒。”
”この新陳代謝の仮定でも、もっとも必要なのは個々の「空気を読む力」。
それに支えられて、現実的な言い方をすると世論が『作られ、強化され、弱体化され、消される』のだと思います。”
”例えば今日書いたこの記事を、「どの立場で」「どの角度から」「何を期待して」見るかによって、
この記事の位置づけは大きく変わります。
ネット上の言論空間の中でどの場所に固定されるかは、見る人によって変わる。”


ネットの在り方が個人の意見を左右する存在になっている。
そしてその総和である世論はネットに依存しつつある。

そんなことを書きました。


さて、ヤフーニュース(スマホ用アプリ)の仕様が、大きく変わりました。

各記事にはコメント数が項目の段階で可視化され、コメント数が多い記事に対してはコメント数を赤文字表記。
もはや「単なるニュース」ではなく、そこは議論の場となっており、SNSの一つとして数えても過言ではないと思います。

スマホを開きヤフーニュースを見て、まず項目から何が注目されているのか。
それに対しみんなどんなコメントをしているのか。

それは政治的な問題であったり経済の話だったり芸能人の私生活の話だったり、
「みんなの意見」を確認して把握。
これが世論なんだな、と。
自分の位置を調整。

そう、この過程。

これは僕がイメージしていたネットと世論のかかわり方そのものです。

多数は決して発信するわけでもなく、自分の意見に同調するものがあればイイねクリック。
『眺めて、楽しむ』。
特に昨今の韓国とのレーダー照射問題は、毎回凄い量の意見がありますね。
非常に、注目されています。

「また韓国の記事出てる。進展あったのかな?なになに?動画サイトへ投稿し、韓国側反論?
みんなどんなコメントしてるのかな。。
(確認)
やっぱり、そうか。
これは日本が正しい!
韓国は謝罪するべきだ!」
というような思考ルートで、気が付けばイイねをクリック。

どうですか?この流れ。

人によっては、項目の見出しだけみて、コメント欄を参照するパターンもあるのではないでしょうか。
僕もたまにそうします。
じっくり思考せず、「自分の感覚」を言葉にしてくれてる、考えなくて済む楽さが、そこにはあります。


同調圧力、というか、賛同する意見に囲まれた心地よさ。

今まで、僕は見たことがありません。
コメント欄は上位3人のコメントが出てきますが、異なる意見だったパターンだったことが。
どれも「隠れた世論」を代表し、「みんなのために」意見を言っている。

皆も同じ意見か、
やっぱりそうなんだ、居心地イイな。


今、ヤフーニュースってのはこのように、単なるニュース提供媒体にとどまらず、一つの大きなSNSになりつつあります。


そして、先にも述べたように、このコメントってのは上位3人のものが抽出されます。
端的にいうと、少数派の意見は、どこにも出てきません。
だいぶスクロールしてやっと出てくるのかもしれない。
多数決の仕組みをとっている以上、当たり前のことです。


無色透明な個人は大多数に組み込まれる。
大多数はより強力になり強い世論を作り出す。

自分は皆と同じ考えだ。
この承認欲求はこの過程で満たされていく。


こうやって世論が可視化され、顕著に数値として示される仕組みがあり、
そしてその仕組みってのが大多数の国民に利用されている以上、
そもそも民主主義とは何か。
民主主義を支える議論というものはどんなものなのか。


直観で判断し、同調する意見に対しイイねを繰り返す。


簡単に言うと、この直観で判断というのは「善悪」です。
「善い」ことか「悪い」ことか感覚で判断し、後からそれをコトバにするためにコメント欄を見る。

楽ですね。
何も考えなくて良いってのは。


世の中、善悪二元論では語れない。
そんなことを6年前の、3回目更新の記事でも言ってたのを見つけました。

”このような複雑なインセンティブが絡み合って社会は構成されている。
よって,社会問題も複雑なものも多くなる。
善悪二言論で語れるものはそう多くはないはずだ。”


なんて言っていますね。


6年間、それを理解しようとし、わかりあえるような社会にするためにはどうすればいいか考えてきた。

そして、まだその答えは出ていない。

これからも、考え続けます。

神社でのお祈り


宗教ってのは偶発性を馴致させる装置」 というのは、以前本で読み心に残っているフレーズです。
確か、宮台真司氏の言葉だったような記憶があります。

世の中、理不尽なコトだらけです。
若しくてガンに罹患。
交通事故で家族を失う。
産まれた時から非五体満足。

”なんで自分だけ”
その問いをずっと続けながら生きていく人って、少なからずいると思います。

なんで自分だけなんでしょう。
理由なんてあるのでしょうか。

ここで前世の行い、なんて言われたら何も言い返せませんが、
どれだけ理不尽に自分にだけつらいことが降りかかっても、必死に生きていく。
ってのが一応の答えだと思います。

僕個人はこういう悩みはありませんが、いつそれが身に降りかかるかわかりません。
特に家庭を持った今。
自分のことだけを考えて生きていけばいいわけではなく、これからのことを考えると不安でたまりません。


そして表題に戻ります。
「宗教ってのは偶発性を馴致させる装置」
であり、よって”なんで自分だけ”の解決方法が、神社でのおいのりだったりすると思います。


僕もジョギングコースに、神社があるのでたまに入ってお祈りします。
子供が産まれる前なら「無事産まれますように」。
司法試験予備試験直前では「試験で自分の力が出せますように」。

こうみると、本当に僕って都合いいな、なんて思ったりますが、
祈りって結局のところそういうものではないかと思います。

こんなこと書いてると紙神様に怒られそうですが、
”なんで自分だけ”って問いに対して”祈りが足らなかったから”なんて答えで
納得させてくれたり、
ちょっといいことあるとお祈りのおかけだと思ったり、
人間ってのは「よくわからない」のを一番恐れる生物だと思っていて、
「よくわからない結果」に対して必死に因果を求めようとするものだと思います。


身近なところは
・なんで今日は調子悪いのか
・懸賞が当選しちゃった

なんてところから、すぐ神に頼ろうとしていませんか。

お盆の墓参りもそういう性質を持っているかもしれません。


ただ脆く弱い生き物である人間は、何かに頼らずに生きてはいけません。
身の回りで自分の力ではコントロールできない現象が起きたのなら、それは神の仕業でしょう。



何かあると頼るべきは神であって、
祈りで報われるならそれが正解で、
その意味で本質的に都合いいものだ、
ってことを言いたかったのが今日のハイライトです。


こんなこと書いちゃって、
悪いことが自分の身に続くと、この記事消しますw


すいません、そんな発想も都合のよさが出ちゃってますw



プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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