思考の対象

この問いにどう答えますか。

「何を考えるか」「思考の対象は。」

普段考えてもみたことがないこんな問い。
それはそうですよね、考える事って無意識ですから。

しかし、思考力ってのが有限である以上、ちゃんと向き合わないといけない問題です。

朝起きて、
今日は朝食何にしようかな?
歯ブラシどれにしようかな?
出かける前に時間あるから新聞でも読もうかな?
やっぱり本でも読むか?
今日の服装は何にしようか?
ネクタイは何色?
靴は?
鞄はいつもの?
ベルトはちゃんと靴とあってる?


例えば、これだけ朝から「思考」してる人っているでしょうか。

楽なのは「いつも通り」です。
いつもの朝ごはん食べて、いつものルーティンして、規則(着る順番)に基づいてスーツ選んで、行ってきます、と。

僕は個人的に、ルーティンに思考を使いたくありません。

ジョブズがいつも同じ服を着ていたように、
極端にいうと出来ればそれをまねしたいくらいで、興味がないことは思考力を使いたくないんです。

めんどくさいから?
その通りです。

そしてもう一つ、思考は有限だからと思うからです。

要は何を優先して「考えるか」。

逆に言うと「何で頭がいっぱいか」。

社会人って基本的に何かに追われていますよね。
その追われている対象がちっぽけでは面白くないですよね。

そういうことです。

もちろん、これは個人差があると思います。

毎日の生活こそが自分にとって一番大事であり、その場合は朝ごはんが思考の対象であっても全く問題ない。


ただ意識しないといけないと思うことは、
”無意識に思考する”
これがリスクってことです。

思考の深度をコントロールする。
どんな対象なら深く考えていくか差をつける。

じゃないと、”もたない”と僕は思います。

そして僕自身は
「司法試験に合格する」事だけをその対象としたい。

でもどうしても、朝起きて夜帰って仕事のことを考えちゃったりする。

僕の個人的な当面の目標は、ずばりココです。

完璧な受験生の脳にする。
勤務時間以外は受かることだけを考える。



って言いながら、もう短答試験まで90日。
この3か月が勝負。
何度も勝負って自分に言い聞かせてるけどw
本当に短答は受からなきゃ。
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考えること、知ること

考えるってことは0から1というように、無から何から創りだし思い付くものではなく、
1+1で2を作ってたまに掛けたり既存のソースをつなぎ合わせるもの。って表現になるんですかね。

っていきなり何言うんだろう。
いや、少なくない本を読んでいますが、”ひらめく方法”的な自己啓発本や、何よりも個人的に思うのは現代の教育で”思考”って、文頭に紹介した最初の意味で使われていませんか。

誰しもができないことを求められるのは嫌います。
ましてや「ユリーカ!」的な閃く瞬間ってのは日常でまず無くて、それを強いられるような勉強の仕方は嫌になって当然でしょう。

日本の学生って「考える力」が足りないとたまに耳にします。
自分の頭で考える力。
暗記をメインにした記憶中心型で勉強しているので、自分の言葉で表す技術がない・・・というような文脈で批判されます。

その批判に対しては僕はまだコメントすることができませんが(研究不足です)、
独創性ってものに嫌悪感を感じている学生も多いと思います。

そんなん、思いつかないわ!って。。(僕がそうでした)


対処法、ではないかもしれませんが、
”考える””思考”って言葉自体をうまく使い分ける必要があると思います。

言葉を使って人は考える。
人は動く。
どの言葉を選ぶか、その言葉を出発点として思考の領域が変わり、全く別の解釈をすることが出来る。

以前こんな記事を書きました。→「政治について考えてみる」
政治を市民社会って言い換えてみよう的な、いかにも小手先な提案(!?)をしたんですが、
抵抗のある言葉をそのまま放置していればそこの距離は縮まらず、違う捉え方をする必要はあると思います。

「君たちはただ知るだけでいいんだ。世の中の理屈を。それを繋ぐときに、閃きが産まれる」って言われたらどんなに楽でしょうか。

よく知識と思考は対局に語られます。
ただ、事実という意味での知識は、思考の前提となっているものであり、僕は手段になっているとも思えます。

こういう意味で思考ってのは
知識の整理
って言えるんじゃないでしょうか。


創りだすって行為への抵抗感。
それは、何も天才的な閃きをしろってのじゃない。
A→Bを知っていて、C→Dを知っていて、
AとCの因果関係(相関関係)が分かったときに関連付けて理解する一種の論理的思考である、そう言えると思います。


多分、思ってる以上に”考えること”への抵抗感を持っている学生って多いと思うんですよね。

まずは声を大にして言いたい。
自己啓発本を捨てて、学問を学びましょう。

”空気”を読んで死んでいく

すいません、ちょっと過激なタイトルになりましたが・・・
今日伝えたいことはそのままで、”空気”を読み続けて死んでいく、そんな人生送りたくないってことです。



そもそも”空気”を読むって何でしょうか。
いい意味で場の雰囲気にあわせる。

悪い意味で自分を殺して流れに身を任すって作業のことだと思います。


社会人になって、組織の一員として5年ほど働いてきましたが、自分の性格として一つ気づいたことがあります。
「群れるのがイヤ」。そういうことです。

純粋に皆と同じ事をするのが嫌ではなくて、「結局生きていくのって独りだろ」って思うわけです。
皮肉とかじゃなくて、本当に仲の良い友人って言える人はいます。

今でも帰省すると必ず会う人。
距離がある中でたまに会いたくなる人。

通じるものがある人ってのは、やっぱり友人であるための条件だと思うんです。

逆に言うと何も通じるものがなければ友人にならない。
当たり前のこの理屈。

深く考えれば、そもそも”通じるもの”って何だろうって根本的な問を考えなくてはなりません。

僕が今日言いたいのはそういうことでなく、
また話もガラっと変わるかもしれませんが、

本当に楽しそうに生きてる人って、
成功している人ってのはある意味で「わが道」を歩いていて
群れるというより人物が集まってくるだけで、
この意味で個性豊かな人物像を想像してしまいます。


さらにはっきり言うと「普通の国家公務員」で生きて死んでいく人生は全く考えていません。
とりあえずなってみた。
でもあわないかも。
だから転職する。
簡単な理屈で司法試験を勉強している僕がいます。


同じ元国家公務員(同期)でありながら現役YouTuberの彼の更新を見ながら、
ふと「普通に生きるってなんだろう」「空気を読んで環境に身をうずめ続けるのって正解か」など、
色んな事を考えたりしました。


これだけは僕自身の個性です。

普通じゃイヤだ。


最低限Wikipediaにのらないとなぁなんて考えながら寝床につく者が普通の人生送ってて満足するわけないです。



幸運にも日本は資本主義。
頑張れば富を得れる。(まずそこ?w)

っていう冗談は置いといて、
やれば勝てる。
その舞台は整っています。



僕自身がこんな考え方だからこそ、
「変わった人」ってのを全力で応援したいのです。

”変わった” 普通、否定的にとらえられるこのニュアンス、
僕は社会を変えるのはいわゆる”変わった人”でしかありえないと思っています。


あいつ頭おかしいやろ、
それを誉め言葉にステップアップできる。
いい意味で学習→思考→評価 この循環で自分を高めれる人。


一番強いのは空気を読んだ上でぶち壊して、新しい空気を作る人ですよね。


普通じゃだめ、考えろ。

これが言いたかった一日でした。


ビジョン、価値観、政治

選挙が始まります。
政治の話を深くするつもりはありません。

ただ今日は一つ。
皆さんは「どの基準で」票を入れる政党を決めますか。

それを決める過程で、一番理想的な形。
「今の日本にはどんな問題があって何を優先して解決していかないといけないから
その課題を優先的に取り組んでいるこの政策をしようとしているこの政党(人物)を私は選ぶ」

どれだけ、こういった意思決定をしているでしょうか。

そんな人はおそらく少数とまでは言いませんが、多くはないでしょうか。

メディア、SNS、新聞、色んな媒介を通して『空気』ってのが流れています。
国民はその空気に敏感に反応しながら、”世論”を感じ取り自分の選択をしている。
こんな流れになっているのではないでしょうか。

つまり、政治の世界ってのは国民の論理的な判断の結集によるその意味での「論理的な民意」ではなく、
時には直感、時には空気、何かわからないけれども「この政党にいれるべきだ」。
そんな”流れ”で政党を選んでいる人は、少なくないはずです。

カリスマとは、このような国民の流れる”空気”を敏感にキャッチするスキルがとても高い。
分かりやすくイメージしやすいキャッチフレーズ。
ある意味「ビジョン」を描かせたもの勝ちなのではないでしょうか。

特に日本のような「忖度」文化があるような国では、マイノリティは圧倒的に不利です。
しかし逆に言うと、そのマイノリティの勢いが「閾値」を超えた途端に世論はひっくり返り、圧倒的多数になる可能性もある。
ここに特殊な国民性を見出すことも可能だと思います。


ここまでの言い方はまるで「国民(有権者)は何も考えていない。バカだ」みたいな感じになってしまっているので弁解します。
もちろん確固たる自分の「価値観」をもってどの政党に票をいれるか選ぶ人ももちろんたくさんいます。

ある意味で絶対的な指標。
そこに理屈はなく”思想の違い”で政党を選ぶ人もいます。


・・
グダグダとなってしまいましたが、言いたかったことは一つ。
個人の論理的な判断は、直感的な判断・ビジョン・絶対的な価値観には劣る。
左脳でじっくり考えるより、右脳でパっと選んだものを最後には選ぶ。

「なんとなく」「なんだか」っていう意思が一番強い。

っていう仮説をいつかまた検証したいな、とか思いながら今日の記事を書きました。

昔もそれらしきことを書いたことがありますが、ロマンは論理に勝つ。
ビジョンあって、理屈は後付け。
そのほうが、人生も面白い気がしますね♪

個人、人権、思想

思想の世界ってのは昔から興味があり、色んな本を読んできました。
そして法律を学ぶと、そもそも個人の価値観とは何かってのを、考えてみる必要があります。

思想の世界。
僕がまず不思議でたまらなかったのは「何をもってこの世界は対立しているのか」ってことです。
身近な問題、現代でも北朝鮮とアメリカだったり、イスラム国によるテロ攻撃だったり、
安全に暮らせる世の中ってのが幻想のようです。

この対立の根本的な部分は、個人的価値観の乖離にあると思います。
そもそも多様性が認められなければ社会ではなく、お互いを認め合い支えあい生きてきたはずです。

人間のコミュニケーションの本質は贈与、交換。
ギブから始まるのが人間関係。

個の繋がりが強く、個性を承認しあいながら生きてきました。
この意味でも個人の価値観つまりは人権は保障され、現憲法上も基本的な人権は「侵すことのできない永久の権利」として明記されています。

しかしこれも無制約ではなく、「公益」を理由に制約されることがあります。

土地の問題で考えればわかりやすいかもしれません。
ある個人が私道を所有し、管理しているところ、それを町道(市道)として使用すると皆のためになる。
公道となることは道自体を所有しているといえど、以降好きに使うことはできず、実質的に寄付するようなものです。

特定の個人の利益を犠牲にし、社会的な効用を増加させる。


こんな事例って実はものすごく身近にあって、逆にそれゆえにもっと考えていい問題なのかもしれません。

結局言いたいことは、
この『個人の人権と社会的利益』のバランスの差ってのが個人の価値観として表れ、
思想対立の要因にもなるのではないか、ってことです。


より個人の人権に着目し、社会全体よりも個人に焦点をあてようというのが「左派(リベラル)」であり
社会全体の効用を高めていこうとするのが「右派(保守)」である。

強引に整理するとこんな感じになるんですかね。
強引すぎるという自負もあり、現状の仮説とします。

ただ、「何を守るか」って核心なところは個人によって差があるのは間違いがなく、
それを認め合い場合によっては譲り合い分かりあう って仕組みはずっと変わらないものだと思います。


法律ってのが、このような国民の価値観を具現化する手段というのなら、
何十年後かには今には考えられないような法律が制定されているかもしれませんね。


法律の厳罰化、少年法の廃止論もよく目にします。
ある意味で、いずれも社会のために犯罪を行うような個人は隔離しろってものだとも思います。

ただこのような問題を考えるので一番重要なのは、「転換可能性」だと思います。
「あっち側の人たち」で終わらせない思考の深さ。
自分が「あっち側」に行かない可能性も0ではない。


法律が正当化される根拠は民主主義にあります。
僕たちで作る民主主義、僕たちで作っていく法律。

そして僕たちはどうあがいても「市民」であり「国民」です。

個人、人権、思想、対立。

究極なテーマ。
この答えのない問題の答えを、僕は生涯かけて追い求めていく気がしてなりません。
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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