親の役割

子供が生まれました。
父親になりました。

決意とかダラダラ書く気はありませんし、まだ親ってどうあるべきか、とか深く考えたこともないので、
親の役割を一つ記します。

それは、
「子供に、この世界は素晴らしいってことを伝えること」



どんなにくじけそうになっても、失望しても、そしてたまには何かに絶望しちゃったときでも、
なんだかんだで世界は美しく、素晴らしいものである。
必ず誰かが君を認めてくれるし、人との繋がりは続いているし、色んな負の側面も見ることは
あると思うけど、それ以上に楽しいことが待っている。


期待と不安ってはいうけど、人生を過ごすうえでは期待10割で生きてください。



いつも笑顔で、とは言わないけど、「結局のところ世の中は捨てたもんじゃないし、自分でよく作り上げることもできるし、生きていくってことは本当に楽しい」
そう、子供に思わせることが、親の役割なのかな、なんて思いました。


僕の両親が役割を果たしたように、僕も果たそうと思います。


産まれてきてくれて、ありがとう。
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思考・生存競争

常日頃から無い頭使って(!)必死に自分の頭で考えようとしている僕ですが、
そもそも何で思考って止めちゃいけないのでしょうか。

っていうより、何で考える必要があるんでしょうか。

僕の仮設としては、思考ってのも結局は「生存競争の一つ」であるように思うんです。

生存競争。つまり「生きる」ため。

単純に言えば、「生きるために考える」ってことになるんじゃないでしょうか。

もちろん、昔に比べて「生きる」って意味も変わってきていると思います。
明日を生きるっていう「生きる」ではなくて、どちらかというともっと高次元の「承認欲求」的な意味合いを含んだ「生きる」。


簡単に言えば、「満足して生活出来ていない」から必死に考えてるわけで、
それほど「考える行為」ってのは身体に大きな負担を与える行為だと思うわけです。

生存競争の結果、何の心配もなく生きていける世界なら、何の思考も必要としないでしょう。
「自分の身が危うい」意味での不満な部分がこの世界にあるわけで、必死に考えてるわけだと思います。

考えるって行為は、結局何かを「創りだすモノ」ではなくもっと消極的な行為になる、ととらえるのはやりすぎでしょうか。


僕自身、何で考えなきゃってせっぱつまってるのか。
自問自答の結果が今日の記事でした。

でも本当に、脳を使う・考えるって行為って思った以上に負担ありますよね。
寝る前には、少し厳しい。

人生はあみだくじ 


ふっと、腑に落ちるような表現を思いつきました。

「人生はあみだくじ。」

人との出逢い。
イベントとの遭遇。
ある衝撃的な光景。

物語のサブストーリーのようで実は本筋だったように、
日常の中でほんの些細な何か、しかし決定的なものであったり、
価値観の合わないあの人が自分の人生をある意味決めてたり。


いつも飲むビールの味が変わってたり、
いつも聴く曲がちょっと違った風に聴こえたり、
いつも見る景色がガラっと変わってたり、
いつもあう人の印象が違ってたり、

色んな所で
”あみだくじ”的現象が発生しているように思えます。


その道の先が、”本来なら”違ったはずだったのに。

じゃぁ”本来なら”どうなってたのか。
結局色々纏めて太い太い一直線で、いいんじゃないの。


いや、そこは細かく考えてもいいんじゃないでしょうか。
少なくとも、そう考えたほうがおもしろい。

今の自分が何を考え何を欲しているのかも、
結局はあみだくじの途中でいろんな「移動」をしているからで、
そういう意味でもたくさん「横に動いちゃった」ほうがたぶん楽しいわけで、

そして何が言いたいかというと、

こうやって
「今の自分への到達過程」を考えるのって凄く楽しいわけで、考えさせられるわけです。

皆さんの、「決定的な横線」って何でしょうか。
やっぱり「人」ですか。
あるいは(僕のように)「本」だったりしますか。


ただ、あみだくじで良いところは、後ろへ戻ることはありませんよね。
なんだかんだ進みます。

自分が何に影響を受けてここまで進んできたか、
生きてきた人生で決定的なモノって何なのか。


そういう会話を、割と本気で、知らない人としたい、なんて思ってます。
薄く”演じる”よりも本気で”生き抜く”。
この違いってのが、社会人約5年目にもなってくるとなんとなくわかってくる気がします。


次に、僕の人生に横線を入れちゃうのは何なのでしょうか。
やっぱり退屈はつまらないので、その時はインパクトのある太い横線をお願いします。



今年最後に、振り返る

今年を漢字一文字で表すとすると、「決」です。

聞かれても無いのにいきなりなんだって思うかもしれませんが・・・w
自分に妥協したくない。
自分の可能性をつぶしたくない。
決断、決心。

(嫁さんのお腹も大きくなり、父親になる決意ってのもだんだん生じてきた気がします。)

勉強は淡々とやっている感じです。
朝少し、昼少し、晩は最近残業だらけなのでできていません。

結構しんどいですね、仕事も忙しくなってくると、勉強と両立することが。
ただ、受かってる人は間違いなく両立させているんで、常に「司法試験合格」を最優先にかんがえて、行動していきます。


今年5月の試験で短答合格、来年論文合格で予備試験クリア。
再来年に司法試験合格。

ただやっぱり勉強しながら思うんですが、一番大事なのは「一人の時間の確保」にあると思います。

僕は独身ではなく、嫁さんが基本隣にいて、子供も生まれて、「一人の時間」ってのは圧倒的に作りづらい状況です。

だからこそ、他人より意識して確保しなきゃなんない。
朝とか、通勤時間とか、昼休みとか、休日も無理やりにでもカフェに行ったりして。

昔、
書いたこともありますが、『嘲笑を称賛に変えるのは、孤独』であるとやっぱり思います。


職場での誘いを断る勇気。
一分でも早く家に帰って机に向かう。

その姿勢は崩さずに。

最期まで、淡々と勉強していく。


2017年は、修行中のような1年間になると思いますが、
やることがありすぎて、逆にワクワクしちゃいますね。




年末、PCのインターネットがつながらなくてずっとブログかけてなかったんですが、
帰省直前の今日、ネットがつながるようになりました。
これで今年を締めようと思います。
本当に特に12月は大変でしたが、全然まだまだやれます。

素晴らしい環境で仕事ができて、勉強もできて、笑っていられる幸運に恵まれた1年間でした。
なんだかわからないけど、ありがとうございました。

”合理的” と ”効率的”


今朝は出勤しながら、考えちゃいました。
”合理的”って言葉と、”効率的”って言葉について。

多分いい傾向だとは思うんですが、法律を勉強するっていうことって異なる価値観があることを理解することだと思いますし、
そしてそれを調整するもの、妥協の産物が法律であるってことにも気づいたし、そしてそのような効果を与える法律の各条文について、「そもそもこの条文の趣旨は・・・」って考えるようになりました。
AはBである。 この一文について、「そもそもAって・・・」というように、本質を考える癖がついたと思います。
考える前提を明確にする。自分なりの定義付けをする。これって、自分の頭で考えるためにも、凄く重要な事だと思います。


前置きが長すぎる気もしますがw
本題。そもそも論で上の2つの言葉について考えた所感。

これらの言葉を使う場面をまず考えてみましょう。
こんな一文ってどうですか。
「試験合格を目指すための、合理的な判断は、効率的な勉強をすること」
こうみると、”効率的”は”合理的”が内包しているもの、と考えられます。

少なくとも、この2つの言葉たちは、通常良い意味で使われますね。
では、”合理的”に考えて行動することは、『正しい』ことなのでしょうか。

この点について、例えば経済学部では、理論の前提として「”合理的”経済人」を設定しています。
『正しい』かはともかく、『自己の生存』を究極の目標にしたうえでの”合理的”な意思決定。これがモデルとされている像です。

ただ、学問の世界ではなく、この世の中で、この理論にどれほどの説得力があるでしょうか。
”合理的”だけが、すべてでしょうか。僕はそう思いません。
”合理的”のみが絶対的な善とみなされると、それは『社会の可能性』の否定としか言えない、と僕は思います。

社会の否定って言葉をどう意味で使ったとかというと、それは「人間性の否定」です。
人間らしさってのは、端的に言うと、『非”合理的”な行為』に他ならない。

ちょうどノーベル賞の発表がありました。
大隅良典栄誉教授の発言を引用↓
「1つだけ強調したいことは、必ずしもがんにつながるとか、余命(の延長)につながると確信して研究を始めたわけではない。基礎研究を、そうご理解いただければ」

何のために、誰のための研究か分からない。学問的渇望、知的好奇心の帰結が、ノーベル賞。
結局、一番効果があるのは、「自分のため」ではなく、「よくわからないが誰かのため」に自分の力を使うこと。
そう意味での未知の領域での進歩こそが、科学発展だし、イノベーションに繋がると、僕は思います。

この文脈で、残念ながら経済学はモデルとする「”合理的”経済人」と対象な人たちによって、作り上げられてきたといえるのではないでしょうか。(ちょっと言い過ぎ)


そして最後に。
経済学上のモデルの「”合理的”経済人」も、たまに間違えちゃうことがあると思います。
ちょっとしたミステイクではなく、重大な過ち。
それは、『人間の欲望は無限大』っていうことをリスクとして捉えられていないことです。
各個人の欲望が有限なら、それを満たす行為こそが、”合理的”だと思いますが、
無限な欲望を満たそうとすることこがまず不可能であり、アプローチを間違えると罪を犯すことになると思います。

海賊王に、俺はなる! でもなんでも欲望を抱くのは自由ですが、
足元を見ながら、この意味での『足るを知る』という言葉の意味に気づくこそが、
欲望を抱く上でのマナーのような気がしてきました。

「足るを知る」、ちょっと違う意味で使っていますが、昔のブログです、恥ずかしい文章ですねw




以上、今日の雑感。
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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