「クレーム」 の本質

僕がこの世で一番といっても過言じゃないくらい嫌いなもの。
それは車のクラクションです。

あれほど日常生活で不快な音はないですよね・・・。
音自体が、っていうよりも、「他人と他人との不満・怒りなどの感情を、第三者である自分に対してまで拡張させて伝えてくる」
その行為が気にくわないんですよね。。。

自分で言うのもあれですが僕は特に社会の平穏・世界の平和を願ってて(!?)
せめて自分の周囲はそうあってほしい(自己中心的)、
半径10mの皆さんはいいことあってほしい的な気持ちで動いているという自負自覚はあるのですが←
それを一瞬にして壊すのが車のクラクションですよね。

「二者間の負の感情を拡散させるな、いい迷惑だ」
っていうのが心底思う気持ちです。やっぱり関係ない他人である僕も、すぐそこで怒りあっている両者がいると思えば
楽しくいれるわけがないんですよね。

本気で危ないときに鳴らすのは仕方ないとして、注意喚起レベルで簡単に鳴らすドライバーは僕は嫌いです。
車自体が好きではないのも、そんな背景もある気がします。


・・・っていう長い長い前置きをして、僕が今日言いたいのは「クレームの本質」について。

例えばクラクション鳴らす行為。
これって一種のクレームですよね。

そもそもクレームとは、とか定義考え始めるとめんどくさいんで、単に「他人への不満を公表すること・伝えること」的な意味合いで解釈しときます。

広い意味で言ったらクラクション鳴らすのもクレーム。
今日の言いたいこと。
クレームの本質。
それは「責任感」だと僕は思います。


責任感、って簡単に言っちゃいましたけど、要は「(不特定多数の誰かに代わって)代表して、みんなのために言わなきゃならないことを言おう」っていう考えです。


そうなんですよね。
多分、電車遅延により駅の職員に汚いコトバ使っちゃう人も、受けたサービスに対し文句言う人も、送られれきた製品・商品に対し不満を言う人も、悪い意味でクレームを言ってる人(クレーマー)ってのは、「他人のためでもあると信じて、代表して行っている」と僕は思います。


僕も社会人5年位やっているんで、例えばレストランとかでも金払ってサービス受けているのにそれが全然ダメだったり、
全く客のこと考えていないような接客されたりすると、はっきり言って腹立ちます。そして僕はまだまだ未熟なので態度に出てりします。でもそれって自分のことだけ考えているんだけじゃなくて、「金払ってサービス受けているんだからそれはないよね」っていうある意味、社会的評価のもと判断してるような気がするんです。


クラクション鳴らす行為ってのもそうじゃないですか。
邪魔だどけ。
そんなことを言いたいがために鳴らしてるのではなく、「公道を走る運転手としてドライバー全員のためにも守ってもらわないといけないマナーがあって、それを君はできていないね」ということを伝えるためのクラクション。

代表して注意してます

って感覚。
どのクレームについてもこんなことは言えるんじゃないでしょうか。

そうすると結局クレームってのも、他者からの承認欲求を満たすという原理的な人間の性質のもと、生じていると思えてきます。


ネットが栄え、消費者の力が強くなったこのご時世で、クレーマーについて考えてみました。

誰しも”必死に仕事してる”なら、深く考えずに仕事をこなす人たちに不満を感じることは多々あるでしょう。
ただ誰しもが”必死に仕事する”義務はなく、自分のペースでゆっくり動いている人もいるんですね。
自分の価値観がすべてではない。
多様性を肯定するためにも、
皆で生きやすい社会を作っていくためにも、
自分への戒めとしても、
今日のブログを書きました。

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何ができるか

学生が終わると、一般的にみんな社会人になります。
社会人というのは、今まで教育を受けてきた結果として「生産者」の立場にたつこと。
そういう言い方ができると思います。

そして、生産者として働いていくうえで、「何ができるのか」っていう視点が重要になってきます。

3つの視点。
「組織(会社)の中で何ができるか」
「組織(会社)は社会に対し何ができるか」
「個人として社会に対し何ができるか」
似たような考え方ですが、
特に3つ目は深く考えると全然違います。

属する組織(会社)を経由せずに、
直接社会に対して何ができるかを考えるものです。

一番わかりやすいのはボランティアとかですかね。
無償での労力の提供。
自分の時間の贈与。

自分が社会に対して役立っていると実感できる瞬間だと思います。



それに対し1つ目ははっきり言うと「井の中の蛙」的な視点です。
もちろん会社の中で自分の地位を高めるために、出世するために
仕事するってのは大事なことだと思います。

ただ、はっきり僕が否定したのは終身雇用・年功序列なんて仕組みは
これからどんどん柔軟に運用されるようになってくから。
簡単にいうとなくなっちゃうってことです。
いろんな企業を見てるとよくわかりますよね。

国際的に競争しようとすると、必然と雇用ってのも流動的になっていくものだと僕は思います。
最終的に力のある企業には、価値を高めない人材はいません。

ってこういうことを今日言おうとしているのではなく、
言いたかったのは

いつかは
”会社”の働き方も変わってくるので、
「組織(会社)の中で何ができるか」
って視点よりも常に
「組織(会社)は社会に対し何ができるか」
ってのは意識して
結局それってのは
「個人として社会に対し何ができるか」
を意識することに他ならない。




ってこんな事を書きながら
思いついたんですが、以前こんな記事を書きました

個人の責任感、主体性について。
今でも、これから
社会を支えていくのはこの2つになると思っています。


思いついたことってのは、
「そもそも社会を変えられる」ってことに気付いていない人が多いじゃないか?ってことです。



いや、無理なことは誰もしようとしません。
よってそんなこと考えやしません。

社会って僕たちでよくするんですか?
誰かがしてくれるんですか?

今まで変えてきた人って、”個人”ですよね。
つまり誰でも変えれる、よくすることができるんです。




最後に・・・
ここまで語ってきた文脈で理解できると思いますが
僕がメディアとかがたまにする嫌いな質問(インタビュー)があります。
【あなたはこの先社会がよくなると思いますか?】

なんだその他人事w
って思いません?


もがきながらあがきながら
みんな生きてる。
必死なだけにたまに誰かを傷つける。
それを許せるくらいに肩の力を抜いて。
お互いを認め合うことができる。

それは皆で作っていくことです。
僕もそれができると信じています。

仕事の種類

人にはパロメーターがあると思います。

いきなりですが、このブログのカテゴリ「思考」が途切れた時は僕のピンチですw
説明は省略しますが、調子いいときはちゃんと自分の頭で考えた結果「思考」分野にエントリーされます。

って
いきなり何かと思いますが、今回の記事は自分の頭で考え抜いたコト。
そう言えるからあたまからこんな文脈で切り出しちゃったわけです。







まず結論からいうと、
人の”働き方”には2種類あります。

それは一つの「完璧」を時間かけて完成する人と、
70%の出来のものをそれより早く出してくる人、です。



僕も国会公務員でかれこれ5年弱働きながら
そして民間企業の方たちともそれなりに知り合いながら
そしてそれなりの本を読んでの感想ですが、




人間には
一つの「完璧」を時間かけて完成させる人と、
70%の出来のものをそれより早く完成させる人の二種類がいる。


そして、いわゆる”マーケット向き”の人は後者でいわば「とりあえず出す人」であり、
”公務員向き”の人は前者でいわば「間違いないものを完璧にして出す人」に該当します。




ここまでいうのも、どうしても”確実に””正確に”仕事をするのなんて無理じゃないか、っていう仮説を考えることがありました。
そして、思考回路をたどって考えてみた結果、
色んなまわりの人を見てみても上記2種類の人間いかいないことに気付きました。


ここで言えるのは
『評価対象の評価方法』つまりはYES or NOが明確に決まっているときは、
正解を出したうえでのアンサーでいい。
しかし市場競争のように何が答えか出したみなきゃわからないときは

『とりあえず出してみる』
そのスタンスが優れている。




そして何よりも大事なのは、
【終局的には評価するのは”市場そのもの”であり経営陣でもなく利害関係者”でもなく
そして”自分”でもない】
ってことに気付いて

そしてそれが
「仕事の種類」に対する考え方だということを
理解・把握することだと思います。







何が大切なのかよくわからないこの時代。
自分の”信念””考え方”ってのはずっと
大切にしなければなりません。


親の役割

子供が生まれました。
父親になりました。

決意とかダラダラ書く気はありませんし、まだ親ってどうあるべきか、とか深く考えたこともないので、
親の役割を一つ記します。

それは、
「子供に、この世界は素晴らしいってことを伝えること」



どんなにくじけそうになっても、失望しても、そしてたまには何かに絶望しちゃったときでも、
なんだかんだで世界は美しく、素晴らしいものである。
必ず誰かが君を認めてくれるし、人との繋がりは続いているし、色んな負の側面も見ることは
あると思うけど、それ以上に楽しいことが待っている。


期待と不安ってはいうけど、人生を過ごすうえでは期待10割で生きてください。



いつも笑顔で、とは言わないけど、「結局のところ世の中は捨てたもんじゃないし、自分でよく作り上げることもできるし、生きていくってことは本当に楽しい」
そう、子供に思わせることが、親の役割なのかな、なんて思いました。


僕の両親が役割を果たしたように、僕も果たそうと思います。


産まれてきてくれて、ありがとう。

思考・生存競争

常日頃から無い頭使って(!)必死に自分の頭で考えようとしている僕ですが、
そもそも何で思考って止めちゃいけないのでしょうか。

っていうより、何で考える必要があるんでしょうか。

僕の仮設としては、思考ってのも結局は「生存競争の一つ」であるように思うんです。

生存競争。つまり「生きる」ため。

単純に言えば、「生きるために考える」ってことになるんじゃないでしょうか。

もちろん、昔に比べて「生きる」って意味も変わってきていると思います。
明日を生きるっていう「生きる」ではなくて、どちらかというともっと高次元の「承認欲求」的な意味合いを含んだ「生きる」。


簡単に言えば、「満足して生活出来ていない」から必死に考えてるわけで、
それほど「考える行為」ってのは身体に大きな負担を与える行為だと思うわけです。

生存競争の結果、何の心配もなく生きていける世界なら、何の思考も必要としないでしょう。
「自分の身が危うい」意味での不満な部分がこの世界にあるわけで、必死に考えてるわけだと思います。

考えるって行為は、結局何かを「創りだすモノ」ではなくもっと消極的な行為になる、ととらえるのはやりすぎでしょうか。


僕自身、何で考えなきゃってせっぱつまってるのか。
自問自答の結果が今日の記事でした。

でも本当に、脳を使う・考えるって行為って思った以上に負担ありますよね。
寝る前には、少し厳しい。
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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