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また一つ、正解を知る

大人になるということは、一つ正解を知ること、といえるかもしれません。
こんな場面ではどのように振る舞うべきだ。
こんな挨拶をするべきだ。
そんなことは言っちゃだめ。
こうすると「デキル人だ」。

ってこんな感じで、一個一個評価され、それをクリアしていく。

でも、この正解って何なんでしょう。
それは、言い換えれば「多数派が肯定する言動」であると思います。

社会の中で生まれたルール、儀礼作法など慣習があり、それは「社会の多数派」が生み出したものです。
もちろん合理的な理由はありますが、視線から話すときのタイミングの取り方、相槌の打ち方まで、そこには「正解」があるように思います。

この正解は〇や×で表すことのできるようなものではなく、相対的な「是」です。
あくまでも、多数派が生み出した相対的な評価です。
よって、いわゆる「正解」とは違った言動をしたからといって、失敗とはいえません。
多数派が間違えていることもあるのですから。


生きていく中でたくさん「正解」があるとしましょう。
それを知るってことは、多数派が肯定するような行いをすることに他なりません。

多数派がやっている行為は正解だから、その行為を行い、承認欲求を求めるのです。
他人から認められるために、一つ一つ「正解」の行為をしていく。
それが社会といえるでしょう。


でも、その結果個人は同質化されます。
皆が同じようにふるまって、相互に承認しあいながら、変わり者を排除します。


この過程で、思考プロセスまで同質化が求められます。
『この場合はこうやって考えるものなんだ。』

みんなが自分と同じような人だったら、安心だなぁ。
これが、没個性化です。


しかし一方で、人は複雑であり『他人と違う』ことにより他者から承認を求めようとする場合もあります。
特に中高生の頃の思春期は、この思いも強かったでしょう。
僕も、自分は特別だと思っていた頃もあった(中二病)し、かめはめ波の練習も何度もやりましたww

残念ながら、僕に特殊能力はついてないみたいです。

このように、「自分は他人と異なる」ことをさらしながら、場面によっては一つの正解を好む。
こんな特徴があるように思います。






人間の本質って議論もまたいつか考えてみたいのですが、今日言いたいことは、僕個人の実感でもありますが、正解を知ることは、思考領域が狭くなる、っていうことです。

イノベーションってのは他人と違う思考過程を経るからこそ生まれるものであり、同一の思考プロセスで生み出されるものは、結局皆が考えていることに他なりません。

必死で勉強して時間をかけて考えても、思考プロセスが同質化された以上、「多数派が考えるもっともな解」が導きだされて終わりです。
無から有は、そこに生じないと思います。


知識を身に着けて社会のルールを知って礼儀作法を知ってコミュニケーションを知って、たくさんのものも失ったように思います。

自分で言うのもなんですが、よく僕は常識がないといわれてきましたw
確かに皆がフムフムと理解する内容でも、腑に落ちず何で何でと聞いていたように思います。

「いや、常識やんw」
何度もこの指摘を頂いたように記憶しています。

でも本当に自分の頭で理解できるまで、僕は納得していませんでした。

それが理解できるようになり、色んなことを身に着けました。
大雑把に言うと賢く社会で生きていく術も、20代のうちに色々教わったように思います。

万札しかなく、お釣り3000円がもったいないながらも泣く泣く意地を張ってお釣りもうえぇで!という経験。
言いにくい上司への悪い報告も、雑談を交えた直後にさりげなく機械的に伝えることですんなり終わらせることができたという経験。
親しき中にも礼儀あり、というように、サラッと言っちゃったけど友人・恋人を傷つけた一言。


絶えず反省を繰り返し、大人になるために成長していく。
その過程はもちろん人間にとって必要です。


でも、僕自身の想いとして、例えばこのブログを書き始めた6年以上も前。
何も知らなかったけど、何でもできるような気がしていました。
あの時のギラギラは、もう残ってないように思います。
いや、またどこからか湧いてくるかもしれませんが、根拠は何もありません。

知ることが増えて、できることができるようになって、できることを知って、結果できないことを知りました。
どんな人がこの世の中にはいて、どんな人のようにはなれなくて、でもあの人みたいにはなれそうだ、と自分を相対的に見れるようになりました。


知るってことは、ある意味つらいことなんでしょうか。

この問いの答えを、「知る」ときも来るのでしょうか。
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エネルギーの使い方

エネルギーの使い方。

人は誰しもエネルギーに満ち溢れていて、それをどうやって使おうか、絶えずその向かう先を見つけているような気がします。

例えば大学デビューして見た目も変わり、性格もガラっと変わった昔の友人。
勉強ばかりしていたのに商社マンになってからずっと遊んでいる彼。
いきなりヨガにはまり会社を辞めてヨガインストラクターになった彼女。
そして特定の宗教にのめりこみ、日々布教に努める人。

振り返って、僕自身が一番エネルギー持ってた頃は大阪でいた頃で多分24歳くらいのときです。
仕事も全力でこなしプライベートも読書会での出会いや同年代の友人との出会いなどすべてにおいて楽しかったころで、
何をするにしても楽しかったように覚えています。

まだその頃は「何ができないか」を知ることもなく、まるで自分には無限の可能性が秘めていてなんでもできるように感じたこともおあったように思います。
そう、このような「自分ならなんでもできる」と思える時期ってのは、誰しも経験するように思います。

もうそれが中高生の頃で終わった人もいるかもしれない、大学で散々遊んで十分満喫してエネルギーを使い果たした人もいるかもしれない、そして社会人になってから、30代から波に乗って40代でエネルギー全開になる人もいるかもしれない。


個人によってもちろんその波は異なりますが、例えばの話ですが今テレビとか出ている著名人って「昔いじめられていた」って告白するような人が多いような気がしませんか。偶然でしょうか。いじめられていたから有名になれるのでしょうか。
僕はそう思いません。
純粋にその人が魅力的だからです。
そこに、人としての需要があるからです。


僕が言いたい一つの法則は、「楽しいといえる青春を送れなかった」という自覚がある人ほど、後から凄いエネルギーを使って加速しフルパワーで力を発揮していくということです。

極端に言うと、必死に失われた時間を取り戻そうとしている。
過去に強い後悔があるほど、人生の帳尻合わせをするためにあがき、もがき、行動する。


色々な人を僕は見てきましたが、間違いなくこの傾向はあるように思います。

中高生の頃勉強もできてスポーツもできてモテていた彼はあまり目立たなくなったね、っていう意見があるとすれば、
それ以上に目立ってなかった人がより目立つようになった=強いエネルギーを発しながら突き進んでいる。
そういうことじゃないでしょうか。


さらに極端に言うと、
結局のところ、嫉妬・妬みのパワーは計り知れない。爆発的な破壊力を持つ。
ってことです。

ルサンチマンこそが、生きる源といっても過言ではないでしょう。


嫉妬・妬みから努力し富と権力を手にし、結果として弱者を見下す。
そんな人には、なりたくないですね。

周りの環境に感謝して、社会に還元できるようになりたいです。
社会的地位や身分は伴わなくとも、小さな力でも社会に影響を与えることはできます。

それが、僕が考えるノブレスオブリージュです。

考えることは苦痛である

考えることは苦痛であります。
現代っ子にとって必須なスマホ。
スマホを見る時間とは、思考停止できる時間であります。

YOUTUBE見たり、ソシャゲしたり、漫画読んだり、SNSチェックしたり。
何も考えなくていい。
ただ、映像・音声が知覚されていくだけの時間。
とっても居心地よいです。

脳を使うより、手など体を動かして作業する単純労働のほうが、楽に感じるときがあります。
決められたルーティンを、同じように淡々とやっていく。
頭を使わない行為は、楽です。

しかし、上記の単純労働は顕著ですが、これらは機械に取って代わられます。
「誰でもきること」は機械が行う時代に突入してきました。

機械じゃできないことを、していかないといけません。
”考えること”が求められる時代がやってきます。


本質的に、思考は苦。
まずはその点を理解することから始まると思います。

そして、これから求められる思考ってのを、考えていかないといけません。
思考の、質。


と同時に、その量を確保していかないといけません。
考える時間の確保です。


最初に書いたように、仕事中休憩時間になれば、まずスマホを眺め”ボーっとする”でしょう。
脳の休息。
それももちろん必要です。
しかし、スマホのせいで、積極的に考える時間ってのを確保することが、著しく困難な時代になってきたと思います。

意識して、物事を考える時間を作らないと、自分の頭で考える時間を作らないと、考える力は身に付きません。


強制的に何かを考えさせられる空間ってのはありますか。


僕は、2つあります。
銭湯での入浴タイム(水風呂・サウナ含む)と、ウォーキング中です。


例えばブログのテーマは、大体銭湯にいるときに思い浮かびます。
特にサウナから出て水風呂に入り、ぬるま湯に浸かってからの10分間は黄金タイムです。
ジュワーって疲れがとれていくの実感しながら、程よい心臓の鼓動を感じながら、すさまじい勢いで脳が活発に行動開始します。


「生活の中で感じる違和感」や「最近本を読んで感じたこと」など身近なことから思考は開始され、いつの間にかサウナ水風呂ぬるま湯を3周くらいしています。

銭湯の中って、視覚的にも聴覚的にも何ら刺激はなくて、逆に感覚的に強い刺激があってそういう環境が頭には良いのかなって思ったります。

これはウォーキングも似ているかもしれません。

いつも家出るときは、ランニング目的で走り始めます。
しかし、いつの間にか無意識に歩いてて、思考が開始されています。

ウォーキング中も見える景色はいつも同じ。
聞こえる音も同じ。
ただ歩いてるだけで、なぜか色々考える。

『試験受かるかな。いや受からないと。受かったらどうしよう。すぐ仕事辞めようか。でも子供小さいしなぁ。就職活動どうしよう。その前に受かること考えないと。今週中にあれやってこれやって、明日は図書館朝から行って・・・』

というように、不安な気持ちや自分を奮い立たせる感情や複雑になりながら、なんだかんだ結局ジョギングはほとんどせずにw
ほぼ歩いて帰ってきてしまっています。

でも、僕はこの時間が非常に価値のあるものだと思っています。
車通勤で日頃から歩くことが少なくなったことから、積極的にこの時間は確保しようと思います。




以上のとおり、再度言いますが、考えることは苦痛であります。

そして、それを理解したときにはじめて、「思考の生産物」に対して敬意が表れてくるものだと思います。

特にひとつのポンチ絵を見ても、パッと見ただけでスッと頭にはいってくるものがありますよね。
そんなのを見ると、感動を覚えます。
修正に修正を重ね、よりベターなもの、ベストなものを作っていくその過程。
まさに職人芸。

仕事のジャンルってのは数えきれないほど存在しますが、その中でもその道の「プロ」ってのはずばり思考を続ける人だと思います。
工夫に工夫を重ね、より良いものをつくるために、思考を継続できる人。


宮崎駿が出ているドキュメンタリーのテレビを見たことがあります。
印象に残っているのは、彼が口を開けば「面倒くさい」と言っていたことです。
単なる作業に、面倒くささはありません。
頭を使わないといけないから、それが苦痛だから面倒くさいんです。
これを見て、僕は、「一流の人たちは常に考えている」って仮設を思いつきました。


今目の前にあるものが、いかなる価値を有するのか。
どれだけの思考が詰まっているのか。
苦痛を乗り越え、生産されたものなのか。


芸術的に素晴らしい作品というものは、「凝縮された思考」が無意識的に、でも直接に感じ取れ、感動を覚える。
そういうことだと思います。


誰かを感動させることができる。
そんな生産物を作ることができるために、毎日思考を続け、プロを目指したいと思います。

プロフェッショナルとは、思考。

『価値』

今朝書いたブログで、これからの行動計画を考えたところです。

そして、具体的に勉強方法を考えたところ、一つのキーワードを思い浮かびました。

それは「価値」。

よく予備校の講師も「実益あることをしなさい」みたいなことを言うのですが、なんとなく頭では分かっていました。
そりゃ社会人時間も限られる中で、無駄なことをする余裕はない。
そんなイメージです。

ただその漠然としたイメージがすっきり頭に入ってきました。

それが「価値」です。

実益ってことばと、価値ってことば。
同じようだけれども、自分の中では違って受け入れられました。

例えば空き時間ができました。
じゃぁ、判例百選でも読むか。
これは実益ありますか?
ありますよね。
本番で試験でも判例の問題はたくさん出てきます。

一方、それを価値ってことばでとらえるとどうなりますか。

価値はあるけれども、優先順位・重要性からして現段階では低くない。
こんな言い方ができますよね。

要は、質を大事にしていくこと。
実益がある勉強でも、それより優れたほかのやり方があるならば、それはやるべきではない。
その意味で、実益はあるが、価値がない勉強。
っていうような文脈で、異なるイメージで解釈できました。


そして、考えたのですが、社会人として限られた時間の中で勉強をするってのは、各勉強の価値を比較し、最優先かつ重要なものを選んでいくことだと。
なんとなく、「これはためになりそう」だからやる勉強ってのが一番いけないってこと。

とてもいい勉強方法を入手した。そして考える。
・今やるべき価値があるか。
・その方法でやる価値があるか
・ほかに付加価値をつけることは出来ないか


思えば、仕事というのは価値をつけることです。

自分は公務員で組織内での連絡調整がメインですが、メール一つでも価値をつけることができます。
そのメールは誰を対象とし、どのような内容で何を求めるか。
部署の窓口で仕事してても、単なるメール転送屋は論外ですよね。
付加価値が何もつけられていない。

ずっとメールで仕事してきたようなものなので、付加価値をつけるのには自信が多少あります。
求められていない情報は省き、特記事項があればその旨つけ加え、誰を巻き込んでどんな投げ方をするのか、など。
それはずっとやってきました。

勉強方法でも、例えば、直前に見る自分で作った教材や判例六法に各論点を書き込み、忘れやすいメモを書き込み付加価値をつける行為も付加価値をつけるもので重要です。

価値があるとして、それからその価値の質を考える。

短期間での合格者は、この判断が間違っていないのだと思います。
それぞれの勉強方法の価値を理解し、正確な順番で正確な時期に、一番効率良いやり方で行っていく。
価値ある勉強の仕方。
それを、考えていこうと思いました。

ぼんやりと勉強するうえで、、「実益」については意識はしていましたが、それぞれの「価値」を考えることで、具体的な質を比較することができ、勉強の質も断然変わりそうです。

あと362日。
今何をすべきか。
これをやって価値があるか。
常に考えて、勉強していきます。


PS
伊藤塾がとても重くて、まだ点数は出ません・・・。
不合格だったら、ホテルをキャンセルしないとなぁw

こればかりは今から祈ったって一緒。
後は今からできることをするだけ。
頑張ります。

社会をよくしたいって言うけれど

僕はこのブログでも、漠然と”社会を良くしたい”(前回の記事でも”みんなハッピーにしたい”なんて言っていました)と言っています。


直観として、そんな感覚はあります。

簡単にいうとお世話になったから恩返ししたい、って感じで、その意味で「ノブレス・オブリージュ」って言葉もブログのタイトルにしています。

でも考えたところ、結局、社会を良くしたい、とは言うけれど、結局「良くなった」ってのは個人の主観の問題である。
つまり個人を幸せにすることが、社会をよくすることにつながる。



というような、アンサーにたどり着きました。

まぁ当たり前かもしれませんが、少し自分の考えに、具体的な意味を見出すことができました。

社会ってのは個人の集まりであり、個々がみんなハッピーであれば、社会もハッピーである。
「この世に絶望している人」を少しでもすくなくできれば、人と人との関係はよくなっていき、社会全体としても住みやすい、生きやすいものになるのではないでしょうか。

「この世に絶望している人」を少しでもすくなくする、つまり言い換えれば他人に対し、「社会に希望を見出す」人を少しでも増やす。

この世は、素晴らしい。

そうやって皆が生きていれば、どんなに素晴らしいか。



そう、やっぱり個人として、結局できることは限られている。

身の回りの小さなことから、身近な人に対して、”与えていく”。



ちょっと、カッコつけすぎかもしれませんよね、社会を良くしたい、とか。

色々考えて色々分かってきたつもりではありますが、泥臭く、しかし粘り強くコツコツとやり続けてきた人が、何かを成し遂げている。

いきなりトップダウンで結果を出せる、この世はそんな構造にはなっていません。


ある人を幸せにする。

何かの形で、助けてあげる。

それがまわりまわって、自分にかえってくる。
その好循環があるとしなたなら、それこそ”社会がよくなった”瞬間でしょう。


だからこそ、逆に言うと、日ごろから他人への接し方は気を付けないといけません。

感じ悪くしちゃうと、その人も別の他人へ同じような接し方をしちゃって結局巡り巡って自分に返ってくるかもしれない。
つまり、悪循環。
でも、今の日本は、皆で皆の首をしめあう、こんな状況になっているようにも思います。


許容と、承認。肯定。
ひとつの善意で、皆の満足。

そんな好循環。


簡単に聞こえるけど、とっても大変。
単純そうで、とっても複雑。


ひとる言えるのは、こうやって色々考えて、自分の言葉で表現していく作業は、間違いなく自分のためになる。

そして、自分が「良く」なれば、間接的に社会に「良い」影響を与えることができるかもしれない。

その可能性を高めている。
それだけは、確実に言えます。



プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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