学問 ― 利他的

久しぶりに、ずっと使っていないカテゴリ「学問」で一つ考察を。
良い感じのほろ酔いになったんでw

「学問は人の他己的な性質を前提にしている。」

このテーゼは是か非か。

少なくとも、学問を学ぶってのは教養を身につけることであり、
より自分の考えを強くもつことであり、そして多様性を理解することであると思います。

この学問を学ぶってのは、例えば資格試験を勉強するって意味の学ぶとは、
少し性格を異にするものと思います。

つまり、端的に「利己的か」「利他的か」。

資格試験のための勉強ってのは、どうしても自分の「市場価値を高めるため」の勉強であり、
就職するための勉強であり、
さらにいうと、ちまたで売っているビジネス本の類もその意味で「利己的」ジャンルになるわけです。



それに対し、学問を学ぶモチベーションってのはどこからくるのでしょうか。
単なる知的好奇心。
『自分の身につくかよくわかんないけど、それだけに興味が出てくるこの欲求』。
哲学なんて、まずそれを勉強したところでどれだけの享受を受けられるか全く不明ですよね。

フィードバックが未知だが、モチベーションは保てる。

本来、人間ってそういう生き物でもあると思うですよね。
よくわからないけど、自分じゃない誰かの役にたつかもしれない。

学問を学ぶって、性質的に利他的な要素はたくさんあると思います。

ただ、それだけでこの対比は終わらすことはできないと思います。

人のことを考える(余裕がある)人≒利他的にふるまっていると見える人っていうのも、究極的に言うと
それは自分のためにそうしているのではないのでしょうか。

簡単に言えば、
死ぬのが本当に怖くて、傷つくのが嫌で、それから必死に逃げて、
結局自分のために「利己的な思考」をすること。

安全のある生活、安定した社会を構築できれば、どれだけ自分にとって居心地がいいか。

「誰でもよかった」で殺される社会から必死に脱却方法を考え、
「よそ見してた」で自分の子供がひき殺されたときを想像し悶える。


不敵な言い方だけど、あえていうと
「頭のおかしい人をこの世から排除できれば、どれだけ安心できるかな」
って考え。
理不尽に偶発的に自分が傷つくことを防ぐ、最善の策ですね、
「他人を矯正する」ってのは。
とても合理的。


極端な言い方しましたけど、今日の意見は
ある意味で間違っていない気もします。


こういう締めくくりをするのは文脈上おかしいと思いますが、今日の記事は
金稼ぐことばかり考えるのは薄く、浅い人間だ。
って思考からスタートしているように思うんです。


そして実際そう思っています。
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教育の賜物、学問の成功


唐突な質問ですが、そもそも学問の成功って何でしょうか。

勝ち負けばかりのこの世の中。
そこで、勝ち負けに限られない、「成功」について考えてみませんか。

そもそも学問は何のためにあって、教育を行う目的は何なのでしょうか。

多分その答えとして僕が知る限りの一番簡単なものは、「一人前の社会人」になるためです。
教養のあって、分別をわきまえた、大人。


一人前の”社会”人。
社会の中で生きていく。
コミュニケーションを的確に行い、組織の一員となったりして世の中に貢献できる人。

この”社会”って言葉との対義語は”個人”です。

あえて断片的に社会と個人って言葉で分けて考えますが、
この文脈での”個人”が「自分は社会の一員である」って事を否定するなら、
その意味で疎外感的なもの、「はみ出たもの」って自覚を与えたならば、
それは教育の失敗であり、学問が無価値になった瞬間だと思います。

本質的にそうであるはずの、「自分はこの社会の中で生きている」って感覚。
これを個人で否定したとき、社会と個人は分断されます。
個人は孤立します。

この疎外感こそが社会での不協和音でもあり、僕がギスギスした世の中だ、と感じるもとでもある気がします。

ただ、実際はそうではありません。

ちょっとした周りの環境の変化で、耐えられなくなったりすることもあるかもしれませんが、
そもそも人は人のために生きていて、お互い認め合うってのが、
性善説的すぎるかもしれませんが、僕の考え方です。

そして、その延長線上に、
逃げても、避けても『一市民』であることは変わらない。
どうあがいても有権者であり、社会を作るその一人である。
って考え方もあると思います。


その責任感の認識。
自分では何ができるか。
それを考えた瞬間が、学問が成功した瞬間である。


ある意味で、”主体性”
ある意味で、先ほども使った”責任感”
この言葉たちが、社会を支える本当のセーフティネットになると僕は思います。



”教育の賜物、学問の成功”ってちょっとカッコよい(?)ことについて、考えてみました。

そして今日語ったこの意味で、
”ノブレス・オブリージュ”って言葉を僕は使っている、ってことにします。

つまり、
決して、金があるから分け与えろってもんじゃなく、
”教育の賜物、学問の成功”の恩恵を受けている以上、何らかの還元を、
ほんの少し、やってみたらいいんじゃないですか?

そして、それってどういうことだろう?って考え始めた瞬間に、学問の成功は目の前にある気もします。

内田樹さんの講演会

日曜日、三連休中日、尊敬する学者の内田樹さんの講演会に行ってきました。

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)
(2014/10/24)
内田樹

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この書籍の出稿講演会です。

今回のイベントで「ミシマ社」って知りました。
いい本ばかり出してる会社です、素晴らしい。

利益重視、とかじゃなくきちんと会社哲学を掲げてて、出す本選んでますね。
書籍一覧から見てもうかがえます→書籍一覧

講演会自体の内容としても、素晴らしかったですね。
僕も内田さんの本はだいぶ読んでいますし、彼自体の思想哲学も理解しているつもりです。
そんな事を述べてました。

端的いうと・・・
「個人ユニットで着目せず、組織で考える」って事ですかね。

内田さんは愛国主義者です、日本のさらなるステップアップを祈願しています。
ただ、ここでステップアップというのは経済発展とは違うかもしれない。

経済的な規模での向上ではなく、国民個人の「民度上昇」。
そして考え方としては、「民度の上昇」のためには「組織の発展」が必要。
逆説的ですがそういうアプローチをしているんですね。

つまり、共同体がヒトを育てるんであって、個人個人が競争の結果組織を秀逸なものにする、って考え方とは逆ですね。
「死者」とか「他者」って言葉を良く彼は使います。
「赤の他人」ひいては共同体あってこその個人
他人から承認を受けて個人として成長出来る。

逆説的ですが論理的な考え方ですね。

この文脈で、過剰な競争社会、そしてヒトの「数値化」について危惧します。

つまり、「その個人が個人として獲得してきた蓄積」よりも、「個人がこれから社会から獲得しうる可能性領域」。
着目する部分が逆なんですよね。

そもそも人を「商品化」し、「数値化」し査定する資本主義ってものを彼は嫌います。
「属人的」ってフレーズもよく使われますが、こうやって個人単位で査定すること自体ナンセンス、と思ってるんでしょうね。

でも僕は社会に競争は少なからず必要だと思います。
ただ、他人を蹴落とすような競争、それをすることにより制度上有利になる、そのようなインセンティブが働く、それは避けるべきですよね。

コミュニケ―ションの本質は贈与であり、それを積み重ねて「社会」単位では一つ上の層に「ステップアップ」することが出来ると思うんです。




僕個人としても考えさせられました。
「社会のために個人として何かする」というよりも、
「社会から還元され、その還元度を高めるためにも知的レベルを向上させる」
みたいな表現。
本質には似てますが、あくまでやっぱり個人は形作られるものであり、「社会を個人が変える」
ってのも違和感を感じてきました。


この点に関しては再度考えていこうと思ってます。
共同体。人と人との繋がり。
年内にもまた良い出逢いがありますように。

肩書 と 語られる内容 【言論の自由】


今、様々な肩書が蔓延しています。
○○学者、ブロガー、批評家、作家、思想家、
もっと実務的な肩書になるとアナリスト、弁護士、あと資格を挙げればキリがないでしょう。

今日考えたのはこのそれぞれの肩書で語れることの出来る内容、その制限についてです。

昼のワイドショーでも、或いは本一つとってもそれぞれのその意見を述べる人の肩書をもって、
その肩書による論考というものが行われていますよね。

では、その述べる表意者・発言者によって語られる内容は制限されうるのか?
ということを考えたんです。

僕は現時点では、この問いに対してyes と返答せざるを得ない状況だと思います。

何故か?
視聴者・読者は肩書をもとにその人を判断し、内容を吟味する。
マスメディアの在り方、及びそれを含む言論界の状況としてこんな現状になっていると思うからです。

要は、肩書の設定により発言者も無意識のうちに語る内容が制限させられている。
「この立場からはこんな事しか言えない」

ある組織に長く属する人、役職で行動する事を求められる人ならば想像つくでしょう。


あるセンテンスがあるとしましょう。
このセンテンスを読んだ人はまず何を思うか?
「これは一体誰が、何の目的で言った内容で、何を言おうとしているんだ?」
じゃないですかね?
僕は少なくとも1つのセンテンスに対しても、「この一文はステークホルダーの一員としての言論である」、
という前提で対応する傾向に気付きました。

肩書きに左右されず共感されるセンテンスがあるとしても、残念ながら現在の言論界はコンテンツ勝負、というわけにはいっていない。
誰がそれを言うかによって支配されていると思うんです。


以上の考察を踏まえた上で、ですが2点。

①僕は今ブログで感じた事、思った事をつらつらと書いていますが、これも僕自身どの肩書を採用するかによって
変化がありうる、
ということです。
経済評論家、と肩書を変えると今日のこんな記事なんか書けやしません。
アマチュア・ブロガーという抽象的すぎる肩書だけに許してくださいw
僕だけの話でもありません。
各界の著名人。
どんな肩書で何を述べているか。
言論内容と肩書の相関関係は。
考えるに値すると思います。

②ネットの可能性、についての言及です。
ネットでの発言って肩書は「ネットの住人」になりますよね。
僕もそうですw

例えば僕がもし仮に万が一素晴らしい記事を書けたということがあってもそれがシェアされるでしょうか?
残念ながら可能性としては非常に少ない。

そう考えると、不特定多数が入り混じれるネット界。
この中で語られる内容ってどれほど有効なんでしょうかね。
純粋にコンテンツで勝負する場。
「知のプラットフォーム」をネットの中で、発言者の肩書無しで構築するのはそもそも可能なのでしょうか。




最後に。
スケールを大きくします。
上記の文脈で考えると、言論の自由って現在日本では憲法でも保障はされてはいますが、
無意識に個人の中で制限されているもの、
といえるのではないでしょうか。
何を言ってもいいが、この立場からはこんな事しかいえない。
コミュニケーションを行ない、語り合う中で無意識にそれを刷り込まれた。
簡単な例→政府を批判出来るのも、一国民という立場で可能になる。
では、他国の政府を批判しますか?
それは自分に実際の利害が無いからですか?地球・世界規模でみるとあり得ますよね。
批判する「資格が無い」「立場じゃない」と刷り込まれているからではないですか?


というより、一個人として自分をどの立場に設定するかにより、言論する内容、
ひいてはその前提となる思考まで制限されているのではないでしょうか。
=「僕はこの内容について考える立場に無い。」
これは思想の自由って領域にももしかして絡んでくるんですかね。



無意識の自覚。
最近はフロイト・ソシュール関連の本を読み漁っているのもあり、言論及び思考様式について考えてみました。

なかなか深く考えちゃったので今日なかなか寝れませんw



明日も雨っぽいですが頑張りましょう^^v
お疲れ様でした♪

学問の「有効性」

学問チックな記事を書こうと思います。
鳥貴族でほろ酔いした土曜の晩です笑



タイトルの名前からして、言葉としてフレーズとして使うには間違っていると僕は思うんです。
「有効性」。費用対効果。
そんな言葉がそもそも「学問」って分野には似合わないと思うんです。

そもそも、「知」とは計測不可能で、自分にとって有効的かどうかわからないような、あやふやなもの、考え方そのものだと思うんです。


以前の記事でも何度か書きましたが、経済的意味での市場で活動するうえで絶えず僕たちは価値を計られる続けます。
その計られる価値とは肩書きとか、市場価値として計測可能な実務的資格の取得などです。

あんまりこういう言い方したくないのですが、わかりやすく言えば学問自体は「考え方」そのもの、計測(測量)可能な実務的肩書き自体は「知識」に該当すると思うんです。

何故こういう言い方をしたくないか。
簡単にスキーム化出来るような問題ではないと僕は思うからです。

以前の記事(クリック★)でも書きましたが、客観的に「わかりやすい」区別の仕方、問題の解決方法程内在する諸問題を抽象化の過程で切り捨てたものなのですから・・・。

閑話休題。
そもそも個人の「思考」、「考え方」自体は計測不可能である。
市場で「価値」として測定されるべきものではない。

そもそも僕はこの学問に関わる思考そのもの、それを「一般教養」と再定義しています。
周囲の環境から自分の意思を決定付けられ思考を構築する過程そのものです。



なんかグダグダしちゃってますね><
端的に言いたいこと・・・。
学問という個人の「考え方」そのもの。
それは価値付けるにあたっては不可能なもの。
「個人」にとっても、それが自己の為になるか判定不可能なもの。
従って「有効的」かどうかわからないもの。
そんなものだと思うんです。


現在、大学進学でも人気な学部は「経営学」とか、どちらかというと知識そのものが重視される実務的な学問になっています。
それを僕は危惧しています。

自分にとって「カネ」になるかわからない。
しかし少なくとも社会のためにはなる。

与することが出来る。
そんなコストパフォーマンスという一言で片づけることの出来ないモノ。

そんなモノを社会は求めているんじゃないですかね・・・。
自分のためになるかどうかは分からないが誰かのためになることであろう部分を相手に与え続けることの出来る人が作る社会。


理想論ですかね、でも資本主義か高度化するにつれて個々のパフォーマンスとしてはそれを目指し続けることしか方向性はないと思います。

個々個人にそのような方向性を目指すことを強制するのは無理です、
でもそのような方向性を向くような個人を作る制度を創る、って言ったらいいんですかね、それを目指すのは少なくとも可能です。


個人重視ではなく前提に社会。

そんなフレームワークを思考の前提として備えた個人を、人格を形成するような制度。

そんな社会を創る事を僕は目指します。



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WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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