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リベラルアーツとは



リベラルアーツはこのブログのタイトルに使われていますが、以前その理由を書きました。

学び、考え、提供される教養。

自分でもリベラルアーツって単語にはとても魅力を感じるし、これからの社会でのキーワードになると思っています。

でも、具体的にどうやって?って考えれば考えるほど、抽象的な言葉だけでに、難しいものです。

例えば、リベラルアーツを勉強したとして、それっていったい何のメリットがあるのでしょうか。
どういった得があるのでしょうか。

この問いに、なんて答えようか。
今日、温泉につかりながら、そんなことを考えました。


で、結局見つかった答えは、
「それはこれからの情報化社会を生き抜くために必要な態度・姿勢」
って、こんな感じのフレーズです。


要は、僕が考えてるリベラルアーツってのは、単なる知識じゃありません。
捉えようによっては「考え方」であり、「フィルター」であり、「態度、姿勢」であり、「思考経路」でもあります。

膨大な量の情報を扱う中で幾度となくその情報に対する判断をせまられます。
例えば「老後2000万円必要」という情報に対し、「それはヤバい!急いで貯め始めないと!」っていう思い。
「老人が車の運転を誤って他人に危害を加えた」という情報に対し、「それはヤバい!老人からは免許剥奪だ!」っていう意見。
「引きこもりがちな青年が人に危害を加えた」という情報に対し、「それはヤバい!ひきこもりは危ないから守らないと!」っていう発想。

日々ニュースでいろんな事件があって、色んなコメントを目にします。
はっきり言って、「脊髄反射」。
そんなコメントも少なくないように思います。


例えば僕の父は亡くなりましたが、特殊な環境で育ち、恵まれているとは言えない中で、必死に家庭を作ってきた、そんな人です。
ほかに、小・中学生のクラスメイトで、性が頻繁に変わったりと複雑な環境の中で生きてきて、結局犯罪を犯して今も刑務所にいる人がいました。


もしそんな人たちが、両親とも円満で、大学までいかせてくれるような家庭だったら、どうだったでしょうか。

生まれ変わっても、また同じ境遇で育ちたい、と思っているのでしょうか。

そんなのを考えるたびに、自分でも違う環境で育ったのなら、過ちをおかしたかもしれない。
強く、そう思います。
転換可能性について、深く考えます。


話は少しそれましたが、リベラルアーツとはこのとおり、自分の出す答えまでに道筋を与えてくれるものです。

「脊髄反射」ではなく「想像力」。
それが、リベラルアーツの力です。

つまりは「接し方」。
以上どちらかという倫理的な側面から言及しましたが、これは例えば「とある数値」に対しても同じことです。

先ほど紹介した「老後2000万円必要」というフレーズ。
この2000万円ってどうやって弾いたのか、気になりませんでしたか。

自分と似た境遇で本当にこれだけの額が必要なのか、って目線で考えると、全く異なる結論が出ると思います。

ほかにもそう。
日頃から数字を目にしない日はありません。

目の前にある数字が何を意味しているのか。
独り歩きして自分の中で誤った解釈をしていないか。

間違いなく言えることは、数字に弱いと、損をします。



さらに、ある程度「社会の仕組み」をわかっていれば、いわゆるフェイクニュースはすぐにそれと気付くものです。
「こんなことはあるはずがない」
この直観はシンプルだけど、とても価値のあるものです。


こうやって考えると、リベラルアーツとは、「正しい答えを導き出すだめのツール」といえる気がしました。
間違いではないと思います。


そして、先も言ったように、これからの情報化社会。
情報の洪水で溺れないように、一つ一つ扱う技術が求められます。

逆にいうと、「知識」こそこれから不要になってくる時代が訪れます。
調べたらすぐに知ることができるし、そして何よりその知識はあっという間に古いものとなるからです。

絶えず情報が更新され、日々新しい情報に接していくのが、これからの社会でしょう。


だからこそ、その一つ一つの情報に対して的確に対応することができる、「リベラルアーツ」の需要は大きくなってくる。
僕は、そう思います。
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『経済学部で何を学んだか』

『経済学部で何を学んだか』っていう問いにどう答えようか、考えています。

というのも、今の僕の目標は司法試験合格であり、他学部卒であり、こういう質問はこれから来る気がしてならないのです。
僕が本気で勉強をし始めたのは、3年生の終わりごろだったような記憶があります。
公務員試験のために学問を知って、やっとそこから入口に立って、試験関係なくただ本を読み漁って、自分なりに経済学の知識を身に着けました。
つまり、残念ながら、大学の講義で身についた、とは思っていません。(ゼミでは非常に勉強になったので、除きます)

言わば独学といっても言い過ぎではないですが、一時期誰よりも本を読んでいました。
特に興味があったのが「行動経済学」になるんですかね、「ヤバい経済学」って本と「人は意外に合理的」って本を偶然、同時に読みました。
電気が身体に走りましたね、ビビッと。
純粋に「人って面白い」ってのがその時の感想です。

読書メーターをやっているので、今でも当時(2012/02/24)の感想は残っています。
「面白かった。テーマ的にはゲーム理論、行動経済学の分野だと思うけど、実際のデータをもとに人々の合理的なインセンティブについて研究していた。つまり金銭的インセンティブ以外にも、社会的、規範的インセンティブは存在し、そういった複雑な要件を考えて、よりベターな社会構造を考えようって本だと思う。むずかしい、合理的選択って。」
らしいですw



結局のところ、経済学も社会科学であり純粋に”人”の研究だと思うんです。
特に昨今その流れってのは顕著のようで、「合理的経済人」を全体として理論から、そのモデルがあまりにも現実からかけ離れているため、どうやって修正を加えようか、それを詰めてる段階にあると思います。

つまり、モデルを一から再考。
ゆえに、モデル=人、個人の研究。
って一周回ってきた感じじゃないですかね。

でも確かに個人的にもその「合理的経済人」をモデルとした理論を理解するのに深く違和感がありました。
端的に「人間ちゃうやん」って、思ってました。
ただ、理論ってのは抽象化なくしては作れない。
剥ぎ取る必要はある。
少し剥ぎ取りすぎじゃない?って疑問を投げかけてるのが、今の現状。
だと僕は思っています。


こんな感じで、想定問答をイメージすると、こんな感じになるかなぁ。。。

Q.『経済学部で何を学びましたか』

A.『はい。”人”について学びました。経済学は社会科学であり、人の研究でもあるということを学びました。そもそも経済学は「合理的経済人」という抽象化したモデルを前提として、理論が作られます。個人的な効用を最大化させるためにそれだけを目標として意思決定する合理的な個人。それが経済学のモデルです。
 しかし、現実はそんなことはありません。まず人は「他人のために」行動します。ボランティアや寄付、いずれも経済学での先ほどのモデルでは理解できません。
 また認識、判断過程の段階で、合理的じゃない選択をすることがあります。認知バイアスって言葉もあるように、我々はしばしば間違った選択をしています。
 このように、人は完全じゃない。では人の意思決定とはどのように成り立っているのか。端的に言うと”インセンティブ”の仕組みの研究。それが、これからの経済学の課題であると思います。同時に、私個人も、経済学で学んだこのような知見をもとに、”人とは”という哲学的ともいえる問いに対して、自分の頭で考えるようにしていこうと思っています。』



以上です。推敲してください。




ここからは仮設ですが、本当に、これからは”社会の断絶””個人の孤立”ってのは問題になってくると思うでの、こうやって個人に焦点をあてて考えてみる、そして人を繋ぐ繋げる、コミット・コネクトって流れは社会的に不可欠だと思います。
弁護士になったら、そんなことをしたいなぁなんて思っています。



以上、経済学ってのは本当に素晴らしい学問で、知れば知るほど学問は分からないっていう、学問の本質を教えてくれたものでした。(この言い方のほうが良いのかな?)
頭では飲みすぎと分かっていても、ワインを新しく開けてグラスに注いでしまった非・合理的経済人からでした。

自動車の社会的費用

端的に言って、僕は自動車が嫌いです。

運転するのが好きではありません。
得意でもありません。田舎に住んでるので、仕方なく毎日運転しています。
極力電車を使うようにし、自動車の運転を避けています。

僕が一番嫌いな音は、自動車のクラクションの音です。

さらに言うと、「仕方ない」からと言って車を運転している人はもう少し考えたほうがいいと思います。
自動車を運転するリスクを。

自分が一番違和感があるのは、自動車ってのは『過失なく人を殺す道具』であるということです。
逆に言うと、過失なく自分があるいは家族が、事故により障害を負いあるいは生命を奪われるリスクがある。

自分だけ乗ってるときはいいんですが、子供とか乗せて運転してて、対向車がはみ出してきて当たってきたらどうしようって、
実は常に考えています。
そういうとき、誰がリスクをとるんですか。

相手の運転手が悪いのはもちろんですが、そもそも車を運転しなければいい話だ、ってのが私個人の見解です。

「自動車を使うことにより得られる便益」ってのは特に田舎に住んでいれば不可欠ですが、
運転せざるを得ない環境にあり、電車あるいはバスという公共交通機関を選択できない不利益、
これを社会システムに組み込んでもいいと思うんです。


都市では公共交通機関も発達していて、「自動車に乗るか乗らないかの選択」をできます。
つまり、自動車を乗ることにより発生するリスクを覚悟の上、選択できるわけです。
酒も飲めない不便性も。

それに対して、そもそもその選択権が無い地方(田舎)は、リスクを取らざるを得ない現状に対してなぜ補償をする、
という議論が発生しないのか、不思議でたまりません。


僕みたいな転勤族が、好んで地方都市に住んでるわけじゃないんです。
好んで毎日自動車を運転しているわけではないんです。


タイトルの「自動車の社会的費用」とは著名な経済学者・宇沢弘文氏が書いた有名な本で、学生時代に読みました。

高度経済成長期、自動車の利便性が語られた時代に、極論として「自動車の社会的なマイナス面」に着目し、言及した。

感覚的には、言いたいことは非常にわかります。
今では当時みたいに排気ガスによる問題などそんな次元はクリアしているのかもしれません。

しかし、そもそも上記のとおりリスクをとらざるを得ない環境に置かれ、
それを負担するだけのこの現状は、おかしいと思います。


ここからはわがままですが、
もっと自分が住んでいるような田舎でも公共交通機関が発達して、電車通勤したいな。
ってのが心からの祈りです。

『これが当たり前』
そう思い始めたら
終わりだと思います。
感じる違和感は大切にし、丁寧に言葉にしてこうやって記していきたいです。

学問とは

学問とは、
想像、共感、承認。
その過程だ。


っていうのをいきなり考え出したりしました。
いきなりすぎる感はありますがw

歩いてて、大学4年間って何を学んだんだろうって考え始めて。
そもそも学問って何だろうって考え始めて。
そんな表現にたどり着きました。


個人的に凄い違和感があるのは、大学で学問を学ぶのを、
自分の社会での市場価値を高める”手段”として捉えている風潮。
どの学部が”就活に有利ですか” ”稼げますか” ”役に立ちますか”
なんて質問。

学問とは、そんな小手先のテクニックで身につくものではないですよね。

僕自身は経済学部でしたが、大学4年生は公務員試験そっちのけで、経済学部を勉強しました。
とても楽しかったです。
朝から晩まで図書館でいて、誰よりも本を読んでる自信がありました。

学べば学ぶほど学問って何だろうって問いに対する答えがわからなくなって、それを探すのが学問だなんて自分の中で定義してみたり、もがいていたのを覚えています。
勿論、今もまだもがいていますが。

もう一度、冒頭のフレーズを。

学問とは、
想像、共感、承認。
その過程だ。

これは、今の僕の仮設です。
ただ一つ分かったのは、学問とは知って身につく知識ではなく、
「態度」であるように思います。


他者を知り、自分を知り、コトバを知り、思考を知り、生きざまを知る。

未知の何かに接したときに、いかなる態度をとるか。
観察し相手の言い分を把握する。
相手の思考の出発点を知る。
妥協点を探る。

この流れこそが、
想像、共感、承認。
その過程 であるように思います。


特に昨今ネットでの言論は表現の自由ということで激しい意見の対立も目立ちますが、
以上僕が語った文脈の中では、
学問的に未熟な人=教養がない人=”自分の意見しか言わない人、他人へ耳を傾けない人”になります。


社会に不満があるからという理由で、人を刺す人がいる。
子供に暴行をする親がいる。
宗教上の対立で、殺し合いをしている人がいる。

この事実を聞いて、思考は行われていますか。

「あー怖いね」「そんな人いるんだね」で終わる話では無いと思います。

こんな部分で真剣に、少し時間を使って自分の頭で考えてみる。
それが、僕が目指す大人の像です。

かっこいいコトバを最後に。
cool head but warm heart


知の見取り図・学問

知の見取り図っていうサイトを見つけました。

軽く、電気が走りました。
これだ、こんなことが僕はしたかったんだ、って。

昔から学問に対してはブログでも項目をもうけ、定期的に更新してきました。
(こんな感じで)

僕は、大学3年生の終りになって公務員試験の勉強を始め、学問を知り、勉強そっちのけでずっと学問を勉強していました。
特に経済学、社会学、哲学、そして法学。
毎日図書館へ行って本を読みました。

僕は本を読む以外の術を知らず、ただずっと本を読んでいました。
図書館へこもって。

何故だか、その日々がすごく楽しくて、ただその楽しさを知るのが遅くて、学生の早いときに知っていたなら・・・って後悔しました。

だから、これからの学生には同じような後悔はしてほしくない。
ずっとそういった気持ちをかかえていました。

その”想い”ってのはずっと心の底のにあって、
たまにブログで記事にしたりしてリマインドしたりして、ただ、それだけでした。

そんな僕がイメージしてた「こんなのあったらな。」ってのが、最初に紹介したサイトです。
とても計り知れないようねエネルギーを持っている学生たち。
何かしたいけどその方法がわからない、そんな彼ら・彼女らにほらどうぞって何か渡すことができるとすると、
知の見取り図のURLでしょう。

時間をかけて知っていく。
そしてその結果何も自分が知っていないことを知る。
究極的には、学問ってその反復だと思います。

紹介したサイトは、読めばわかりますが、
要は学問の体系化です。
こんな学説もありしかし現実はこうで、説得力のある理論はこうだ。
見ているだけで、『あ、この本買わなくちゃ』ってなりませんか。

そんな知的好奇心を高めるツールとして最適だし、学問学ぶスタート地点としてベストだし、
素晴らしいと思います。


最後に、
僕はもし叶うのであれば、司法試験合格後、弁護士として大学生たちに触れ合う機会を作りたいと思っています。
合格体験記とか勉強法とか、そんなちっぽけなものではなくて、
「学問楽しいから、思っている以上に楽しいから、少しでも学びたいって思ったらその気持ちを大切にしてください。
その姿勢こそが学問を学ぶというゴールであり、つまりは終りがないゴールなんだと思うよ」
って気持ちを伝えたいです。

優秀な人たちはそっとしておいたら良いと思うんです。
出来れば学業成績の低い、もがいている人たちに一緒になって考えてあげたい。
その気持ちは、ずっと持ち続けています。
プロフィール

WIPA

Author:WIPA
司法試験受験生。
転職活動中。
趣味は読書。

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